張玘
- 字は伯玉、代々河南澠池に住む。建炎中、家財で兵を募り金人を討ち従う者は数千人に及んだ。当時翟興が京西を制置しており、玘は衆を率いてこれに属した。金兵が河を渡って長駆すると玘は白浪口でこれを防ぎ、金人は渡れなかった。功を積み武翼大夫・成州刺史となり、董先が制置司前軍統制になるとこれを佐け、毎戦矢石を冒し諸軍の先頭に立った。紹興元年、金将高瓊が商州を取ろうとすると董先がこれを防ぎ、玘は鋭を乗じて突撃、従騎が追いつけぬほど単馬で四皓廟に至ると金兵数百騎が現れ、玘は目を怒らせ大声を上げ刃を振るって突撃、金兵はひるみ敢えて向かう者がなかった。この日九戦九勝、試剣関まで追撃し争門で百人を蹂躙して殺した。翌年春、董先とともに藍田から渭を渡り長安を規取しようとした。当時偽斉の経略司・李諤が渭北に駐屯し、金将折合孛堇と声勢を張っていた。玘は華厳川に陣を布くと白気が日を貫き、吏士は奮い立ち興平・咸陽・渭河・石鼈谷で戦った。当時劉豫が京師を占拠し先の軍は食糧が乏しく偽って降ることとなり、家族を連れて行かなかった玘は豫の夫人に旧のように仕えた。豫は人を遣わし妻を迎えようとしたが、先が密かに書を送って玘に遣わさぬよう伝え必ず戻る意を告げた。王倚は虢州を代行し偽の陣営に属し、玘を憂いていたが、別将・董震が商州から来ると倚は喜んで「震は私と親しい、今兵を率いて来たのは天の助けだ」と言い震と共に玘を殺す謀を企てた。震は表向き応じつつ密かにこれを玘に告げ、翌日倚が玘に議事を求めた際、玘は倚を叱り大義を責め、推官・祁宗儒とともに斬った。先立って豫は使者を遣わし詔を持たせ玘を商虢順州路兵馬都監同統制軍馬に任じていたが、この機会にその使者も併せて殺した。偽斉の河南安撫・孟邦雄、総管・樊彦直が洛陽を根拠に長水まで兵を進めると、玘は将・陳俊に白馬山を、謝皋に船板山を、梁進に錦屏山を守らせ精鋭を隠した。金兵が深く侵入すると玘は東関の三砦で応戦し金兵は潰え、玘は精騎三千を率い一日一夜に三百里を駆け夜明けに河南に至り邦雄を捕虜とし彦直は逃げた。便宜により霸州防禦使に進んだ。三年春、董先が偽斉から帰参すると玘も兵権を返還し当時の人はこれを義とした。かつて翟興が死んだ後、朝廷はその子・琮に後を継がせていたが、この時琮の奏請により玘は武翼大夫・果州団練使・河南府孟汝唐州馬歩軍副総管に真に任じられ、唐鄧の間で金将閻鋭を撃ち千余人を殺傷、まもなく董先の一行が神武後軍統制に配属されると、玘は岳飛に従い京西六州を回復、湖賊・鍾子義らを平定し功を積み拱衛大夫に進み侍衛に入った。当初、王倚を誅した事が上聞し史館に付され褒詔を賜り、親衛大夫に進んだ。三十二年、御営宿衛前軍都統として泗州に屯し、金人が海州を急襲すると詔により鎮江都統制・張子蓋と合流させ、賊が城を幾重にも囲み矢石が雨のごとく降る中、玘は州の北三里で戦い精騎を指揮して敵陣を衝き自ら数十人を斬り、その将を殺し殺傷万余と海州の包囲を解いたが、玘自身も流矢に当たり没した。子蓋がその功を上奏し正任観察使を特に贈られ、家族九人が登用され廟号は「忠勇」。孝宗即位後、戦った場所での祭祀を命じ清遠軍承宣使を贈った。子の世雄は符離の戦いで没し武節大夫を贈られた。