曾孝序
- 字は逄原、泉州晋江の人。蔭により将作監主簿を補せられ、泰州海安鹽倉監督となり泰州に居を構え、累進して環慶路経略安撫使となった。上京の際、蔡京と講議司の事を論じ「天下の財は流通が貴い、民の膏血を取って京師に集めるのは太平の法ではない」と述べた。京はこれを恨んだ。当時京師で結糴・俵糴の法が行われ、民財をすべて括して数を満たそうとしていたが、孝序は「民力は尽きている、民は国の根本だ、一つでも逃亡すれば誰が国を守るのか」と上疏した。京はますます怒り、御史・宋聖寵に弾劾させ家人まで取り調べたが何も出ず、ただ出師の日程がやや軍期に誤りがあったとだけ責め、籍を剥奪して嶺表に流し、赦により永州に移した。京が罷相すると顕謨閣待制・潭州知州に復した。猺人の事について呉居厚と意見が合わず落職して袁州知州となったが、まもなく復職して再び潭州知州となった。道州の猺人が高所険地に拠り毒矢と石を用いて反抗し官軍が両山の間で巨木に阻まれ進めなかったが、孝序は夜に精鋭を派遣し登らせ大軍を続けさせて破り平定した。顕謨閣直学士に進み龍図閣直学士・青州知州に転じ、城池を修め士卒を訓練し金穀を数年分蓄え、金人は敢えて犯さなかった。高宗即位後、徽猷閣学士に遷り延康殿学士に昇進、召されて行在に赴こうとした際、青州の民は南都に留任を求め許された。もとより臨朐の土兵・趙晟が衆を集め乱を起こしたことがあり、孝序は将官・王定に千人を与えて捕らえさせたが失敗して帰り、孝序が力戦して罪を贖うよう責めると、定は言葉巧みに敗卒を扇動し門を破って侵入、孝序は庁事に出て目を怒らせ罵ったところ、子の宣教郎・訏とともに殺害された。享年七十九。城は主を失い陥落した。臨淄知県・陸有常は民兵を率いて拒戦し陣中で死に、益都知県・張侃、千乗県丞・丁興宗もともに死んだ。のち孝序に光禄大夫の五官を、子の訏には承議郎、有常には朝散郎を贈り家族一人を登用、侃・興宗にも二官を贈り子二人を登用した。