孫昭遠
- 字は顕叔、先祖は眉州眉山の人。元祐間進士、長沙尉から河東経略司幹当公事に招かれ、鳳翔天興県・河北山東撫諭盗賊幹当公事を歴任し、河北燕山府路転運使に抜擢された。靖康元年、召されて水部員外郎となる。金人が太原を包囲し宋軍が多く潰えると欽宗は折彦質に伝を乗って昭遠とともに集めさせたが、まもなく洛陽が陥落した。西京留守・西道総管の王襄が襄漢に治所を移すと、昭遠を西道総管に任じ潰兵を収集させ京兆に至り、永興路安撫・范致虚と合流して諸軍で入援した。昭遠は督戦し諸道に出兵を檄したが、環慶帥・王似、熙河帥・王倚がそれぞれ兵を率い、涇原帥・席貢、秦鳳帥・趙?、鄜坊使・張深はいずれも期日に遅れ、昭遠は二十八の疏でこれを弾劾した。合わせて十万の兵を得て馬祐昌に統率させ、昭遠は范致虚とともに関を出たが、祐昌が金人と戦い敗れ京師が陥落、使者を大元帥府に送った。建炎元年、河南尹・西京留守・西道都総管として洛陽に戻り、散兵を収集し万余人を得て伊陽に柵を築き民を入れて保護した。冬、金人が攻めると昭遠は将・姚慶を派遣し防がせたが軍は敗れ慶は死んだ。昭遠は将官・王伃に啓運諸殿の神御を奉じて間道から行在に送らせたが、金兵はいよいよ勢いを増し昭遠は戦に利を得られず、部下は昭遠を擁して南に退こうとしたが、昭遠は「お前たちは平生官府の衣食を受けてきたのに、この時に国に報いなくてどうする、南に逃げてどうするつもりか」と叱った。叛兵は怒って昭遠を撃ちついに殺害された。官属で免れた者はいなかった。四年後、徽猷閣待制を追贈された。