永興軍に死す
唐重
- 唐重、字は聖任。眉州彭山の人。大観3年(1109年)進士。蜀州司理参軍、成都府学教授、金堂県知事などを歴任。開拓地の弊害を宰相に訴え召対された。
- 京師の防衛策として童貫の処刑を進言、右諫議大夫として和戦論を弁論。金への金帛供出に反対し、蔡京父子の処罰を求めた。中書舎人となるも人事批判で失脚し同州知事。
- 金軍侵入に際し開城して民を逃がし少数兵で死守の構えを見せ金軍を退けた。天章閣待制。陝西宣撫使范致虚への進言や、高宗即位後の車駕西幸論、闗中防衛策など数々の上疏を行った。
- 天章閣直学士として京兆府知事兼安撫制置使。三策(関中確保・南陽拠点・都城再建)を上奏。金将婁宿の侵攻に対し兵力不足を訴えたが応じられず、父への訣別の書を残し戦った。城陥落時、親兵百人で血戦し流矢に当たり戦死。資政殿学士・諡恭愍を贈られた。
郭忠孝(附伝)
- 郭忠孝、字は立之。河南の人。枢密院事郭逵の子。程頤に易を学んだ。河東路提挙として鹽法問題を穏健に処理し王黼に憎まれ罷免。靖康初年、軍器少監として金への追撃策を上奏したが用いられなかった。
- 永興軍路提点刑獄として保甲制の整理を進言、陝の兵3万を得て蒲解に出兵、猗氏で金を破り太平・平陽まで進んだが大軍の敗北で撤退。永興陥落の危機に唐重と分担して西壁を守ったが陥落し、唐重・楊宗閔・桑景詢・曾謂・王尚・程迪と共に戦死。大中大夫を贈られた。子の郭雍は別伝あり。
程迪(附伝)
- 程迪、字は恵老。開封の人。父の程博古は鄜延の戦で戦死。門蔭で官を得て方臘討伐で功を挙げ武功大夫。唐重の下で軍馬提挙となり土豪と結んで対金遊撃策を進言したが実行前に城が包囲された。
- 傅亮の籠城論と対立しつつも最後は共に死守を誓い、城陥落後も部下を率いて巷戦、負傷を重ねながら戦い続け戦死した。明州観察使・諡恭愍を贈られた。