晋寧軍に死す
- 徐徽言、字は彦猷。衢州西安の人。大観2年(1108年)武挙で及第。保徳軍監押、平陽府軍馬鈐轄などを歴任し西夏との戦功で累進。宣和4年(1122年)河西の異民族討伐で功を挙げたが童貫に嫉まれた。
- 火山軍知事兼河西軍馬統制、晋寧軍知事兼嵐石路沿辺安撫使。金の太原包囲で糧道遮断に対抗し河西を渡って撃破。范致虚の勤王軍檄に応じ河西を守った。
- 聶昌が金の脅迫で麟・府・豊・晋寧を西夏に割譲した際、詔の偽りを見抜き三州を奪還。汾晋の土豪数十万を結集し太原奪回を計画したが、金の警戒により晋寧が包囲された。
- 折可求の降伏勧誘を拒み矢で射返し、羅索(婁室配下)の子を討ち取った。孤城で200戦を凌いだが、水源を断たれ武具も尽き、城陥落前に武器を焼却し兄への訣別の書を残した。
- 妻子を室に置き自ら薪に火を放とうとしたが金兵に捕らえられ、冠帯を着けて金帥に見えるよう勧められても拒み、降伏の誘いを一切はねつけ、最後は射殺された。高宗は「忠は日月を貫き顔真卿・段秀実にまさる」と称え晋州観察使・諡忠壮を贈った。子の徐岡も殉じ、従孫の徐適も安豊で死んだ。