生涯
- 崔遵度、字は堅白。もと江陵の人、後に淄州淄川に移った。純介で学を好み、7歳で叔父の憲に経を学び、『春秋』編年史や『漢紀』の伝の例を問うたところ憲は「この子は他日名を成すだろう」と評した。太平興国八年進士、和州主簿から臨汾に転じ、粮秣輸送で三度綏州に赴き無定河を渡った際、水と砂が混じり定まらぬ流れで溺れる者が絶えないことを憫れみ銘を著した。
- 端拱初、転運副使夏侯濤の推薦で召され、便坐で対面の際自ら文を献じて自薦、祕閣建設を機に「頌」の制作を命じられ著作佐郎に抜擢。淳化中、吏部侍郎李至の推薦で殿中丞、知忠州の際に李順の乱で賊将張余が来攻、遵度は甲士百余を率いて城を背に戦うも城壁を破られ江に投じたが州兵に救われた。城の陥落の責を負い崇陽令に左遷、鹿邑に移り咸平初に太子中允に復帰。
- 景徳初、真宗の召に応じ文章を試され太常丞直史館、『両朝国史』編修で路振とともに編修官。大中祥符元年、起居注編修を兼ね東封に随行し博士として汾陰祭祀に列した。両省官が少なかったため左司諫を授かった。
- 与物無競で栄利に淡白、右史を10余年務め退勤時は物陰に隠れて上に見られることを避けた。湫隘な借家に小閣を築き自ら竹を植え、退勤後は琴を弾き独酌する日々を過ごした。「琴箋」を著し、琴の徽の数(十三)が暦や律呂の自然の節理に由来すること、易・太極・律呂・晝夜・刻漏の関係、易の卦画(三を基とし重ねて六)と琴の徽(一を根とし三を節とする)の相似構造、琴の中徽が根本であること、作易と作琴の理が天地と楽の本源を究める点で通じることなどを論じた(長大な論であり要旨のみ記す)。世はその見識を称えた。
- 天禧七年(原文ママ、東郊建壇の恭謝の際)、正坐・配坐の設置と昊天・聖祖の記載誤りにより張復とともに右正言に降格されたが、後に秩を回復。九年、仁宗が寿春郡王として開府された際、宰相に「耆徳方正・学術のある士」を求められ、遵度は張士遜とともに王友となり、戸部員外郎・金紫を賜り、仁宗自ら七言詩を賜って寵遇し、王友の礼を破って答拝させたという。
- 王府の文翰は遵度が担い、『国史』完成で吏部員外郎、昇邸進封で礼部郎中・諮議参軍、儲宮建設で吏部兼左諭徳。契丹への使者、司農寺判事を経て天禧四年8月、67歳で没した。子2人が官を拝し、仁宗即位後、工部侍郎を追贈、孫2人にも官が授けられた。文集20巻。