宋史卷四百四十一 列傳第二百 陳越

生涯

  • 陳越、字は損之。開封尉氏の人。祖の守危は興道令、父の夏は虞部員外郎。少くして学を好み歴代史に精しく文章に優れ気概があった。咸平中、賢良の推挙で刑部侍郎郭贄に推薦され策で第四等、将作監丞から通判舒州、知端州・袁州を経て著作佐郎直史館、鼓司登聞院を掌り『冊府元亀』編修に陳従易・劉筠とともに勤勉に取り組み、俸給が薄いため月増五千銭を給された。車駕の朝陵の際は留司の名表を任され評価された。
  • 太常丞・羣牧判官に遷り汾陰祭祀の際に左正言。気骨があり任気を好み友人に対する諫言を喜んだが、盃酒に放縦で家産に無頓着であり、過度の飲酒がもとで病を得て大中祥符五年、40歳で子なく没し、母の老後が案じられた。
  • 兄の咸はかつて進士に挙げられたが不第、楊億・杜鎬・陳彭年らが真宗に言上したことでこれを憐れみ、『冊府元亀』御覧のとき咸に同三伝出身が特賜された。中書の章奏は常に舎人が担うのが慣例だが、東封後は儀礼が多く舎人の手が回らぬため館閣官の盛度・路振・劉筠・夏竦・宋綬と越が分担して表奏を作り、宰相はこれをもって名を挙げたが、後にこの中で越だけが外制を掌ることなく終わり、時論はこれを惜しんだ。