宋史卷四百四十一 列傳第二百 路振

生涯

  • 路振、字は子発。永州祁陽の人。唐の宰相路巌の四世孫。巖が嶺外で死んだ後、子の琛が湘潭に逃れ住んだ。父の洵美は馬希杲に仕え連州従事、病を辞して家で没した。振は幼くして頴悟、5歳で『孝経』『論語』を誦し、10歳で『陰符経』を百言で理解するとして学ぶことをやめようとしたが、父の叱責で学業を続けた。12歳で父を喪い、母の督励のもと隆冬盛暑を厭わず学んだ。
  • 淳化中、太宗が科挙の弊風を正すため「巵言日出賦」を試させたところ数百人の受験者が難渋する中、貧しく無名だった振の賦が特に典雅で高く評価され甲科に抜擢、大理寺評事から邠州通判、徐州通判を経て直史館。太子中允知濱州の際、契丹の攻囲に際し民を撫諭して籠城を固め数日で撃退、転運使劉綜に評価された。
  • 咸平中の契丹の高陽関侵犯で大将康保裔が捕らえられた際、朝廷が派遣した将王栄が戦意なく無為に馬を疲弊させ多くの馬が路上で斃れた事件を悼んで「祭戦馬文」を作った(原文は長大な祭文で、名馬の育成と将の無能ぶり、戦わずして馬を失った経緯を悼み、犠牲となった馬を弔う内容)。
  • 判大理寺、太常丞知河中府、知鄧州、判吏部南曹三司催欠憑由司、景徳中は福建巡撫使、判鼓司登聞院。両朝国史編修官として抜擢され、大中祥符初、契丹への使者として赴いた記録『乗軺録』を献じ太常博士に改まり、左司諫・知制誥に抜擢。詩詠に優れ名輩に賞賛されたが、七年、崔復・崔遵度と共に起居注の記載誤りで降格、振と夏竦がその後任となった。嗜酒により病を得てその年冬に58歳で没した。子の綸は太常寺奉礼郎に叙された。
  • 純厚で城府なく、登用が遅れたことを世は惜しんだ。文集20巻のほか、五代末の九国の君臣事蹟を集めた世家列伝を著したが未完のまま没した。