宋史卷四百四十 列傳第一百九十九 羅處約

出自と青年期の論

  • 羅処約、字は思純。益州華陽の人。唐の酷吏羅希奭の子孫。伯祖の袞は唐末に諫官、父の済は蜀に仕えて朝官、帰宋後に太常丞。
  • かつて「黄老先六経論」を作り、司馬遷が道徳を先とし六経を後としたことを批判する俗説に反論、道と六経は本来一体であり黄老と孔子はともに道を体得したものであるとし、老子が孔子にも師事されたと伝わることを引いて両者を優劣で語る愚を説いた(原文は長大な論であり要旨のみ記す)。

官歴と上奏

  • 進士に及第して臨渙主簿、大理評事知呉県を歴任。王禹偁と隣県で詩の唱酬を交わし蘇杭に伝わった。ともに召還され太宗自ら試題を出し、禹偁は右拾遺、処約は著作郎となり、いずれも直史館・緋魚を賜った。
  • 太宗の求言の詔に応じ、三司の制度改革を論じる長大な上奏を奉った。三司は唐中葉以来の変則的制度であり、六典の旧に復して尚書都省・二十四司の体制に戻すべきこと、九寺三監の冗官を整理すべきことなどを論じた(要旨のみ記す)。
  • のち荊湖路巡撫を命じられ、苛察を名として弾劾を多く行い官吏の多くが処罰された。淳化三年、33歳で没した。父の済は開封府司録として太宗に評価され、太平興国中、処約が兄の賁と同時に進士に挙げられた際、太宗は賁が済の子と知って高等に置いた。八年、処約も及第、賁はのちに員外郎に至った。処約は容姿豊かで文才があったが進取に急であったため世論に軽んじられた。没後、蘇易簡・王禹偁がその文を集めて「東観集」十巻とし、易簡が上表して献じ史館に収められた。
  • なお蜀の士に厳儲という者があり、太平興国中の進士で直史館・河北督軍糧を務めたが契丹に陥落し捕らわれた。