出自と生い立ち
- 安徳裕、字は益之、一字は師臯。河南の人。父の重栄は晋の成徳軍節度使(『五代史』に伝がある)。徳裕は真定で生まれ、生後まもなく重栄が挙兵に敗れると、乳母が水路を通って脱出させようとして守兵に捕らわれた。重栄と旧知の軍校秦習がこれを匿い、既に養子としていた石守瓊に徳裕を託して育てさせた。このため一時秦氏を名乗った。
- 幼くして筆硯を好み文字を誦したが、養家の子らはこれを侮った。習だけがその才を認め、成童となって学問を修め、文史に通じ礼伝に精しく『漢書』を好んだ。習の没後、徳裕は三年の喪に服してから本姓に復した。習の家は財産を全て徳裕に譲ろうとしたが、徳裕は「秦氏の蓄えは自分に関わりない、丈夫は自ら功名を立てて富貴を得るべきだ」と辞退し、世人はこれを称えた。
官歴
- 開宝二年、進士甲科に及第。帰州軍事推官、大理寺丞、著作佐郎を歴任。太平興国中、祕書丞知広済軍。軍城が新築されたばかりのため軍記および図経三巻を作り褒詔を得て太常博士に転じた。八年、通判秦州から知州事。雍熙初、主客員外郎に遷り広州通判を命じられたが赴任前に宰相李昉の推薦で直史館となった。
- 端拱初、金部員外郎。淳化初、知開封県。三館職を兼ねて直昭文館。淳化三年春の廷試で史館修撰梁周翰とともに考官となり、真宗(当時)は両者を「有聞の士だが郎署に留め置かれた」と評し、周翰の狭量と徳裕の嗜酒がいずれも改まったと述べて金紫を賜った。司勲員外郎に遷り、至道初には自作の「九絃琴」「五絃阮頌」を献じてその古雅な詞采を称賛された。至道三年、金部郎中に転じ知睦州、その後判太府寺。咸平五年、63歳で没した。
- 性格は介潔で人物鑑定に自負があり、王禹偁・孫何がともに若くして文壇に遊んだ際、徳裕は力を尽くしてその名声を広め、後に自らも考試を担当した際に孫何を首席に選んだが、孫何が酒に溺れたため昇進の機を失った。文集40巻がある。