出自と生い立ち
- 柳開、字は仲塗。大名の人。父の承翰は乾徳初の監察御史。幼くして頴異で胆力があり、13歳のとき盗賊を単身撃退した逸話がある。
- 五代の文体の浅薄さを嫌い、韓愈・柳宗元を慕って文を作り、名を肖愈・字を紹元と改め、さらに「開聖道之塗」の意で名を開と改めた。号は東郊野夫、また補亡先生。気概を重んじ、交友はいずれも当時の豪傑で、范杲が特に文才を高く評価し、世に「柳范」と並称された。王祐・楊昭儉・盧多遜らにも文才を認められた。
科挙から辺境勤務まで
- 開宝六年に進士。宋州司寇参軍として獄事の処理で評判を得、本州録事参軍に遷った。太平興国中に右賛善大夫、征太原の際は楚泗八州の輸糧を督した。知常州、殿中丞、潤州、監察御史、知貝州、殿中侍御史を歴任。
- 雍熙二年、監軍との争いで上蔡令に左遷。大挙北征の際に軍糧輸送を担当し、涿州近くで契丹の酋長が米信と対峙した際、偽って降伏を求めてきたのに対し「兵法に無約にして和を請うは謀なり、急いで攻めるべし」と信に進言したが、信は躊躇して二日を過ごし、契丹はその間に矢を幽州で補給した。
- 軍が帰還後、上書して従軍を願い出て太宗に憐れまれ、殿中侍御史に再任。雍熙中、河北使を務めた際にも上疏し、河北での従軍を願う長い抗疏を奉った(要旨は幽薊回復への決意)。
- 太宗は五代以来武臣偏重の弊を正すため文臣の兼用を進め、鄭宣・趙載・劉墀・劉慶らとともに開を崇儀使知寧邊軍とした。
全州・桂州・辺境政策の建言
- 全州に転じた際、全西延洞の粟氏一族500余人が民の食糧家畜を略奪していたのを、開は使者を送って懐柔し、帰順すれば厚遇すると諭した。粟氏は人質を残して来訪、開は厚遇して帰し、期日通りに老幼を率いて帰順したため、これを賦役に組み入れ「時鑑」一篇を刻石して戒めとし、酋長を朝廷に送った。
- 淳化初、桂州に移る前、全州で兵卒を杖責し黥面のうえ都に送った件が問題視され、二官を削られ復州団練副使に左遷、その後滁州で旧官に復し、環州・邠州で民の輸送負担を訴えて軽減させた。曹州・邢州の知事も務めた。
- 真宗即位後、如京使を加え知代州に転じた際、辺境政策・軍制改革・宰相枢密のあり方・京府の統治・郡県の官吏配置・世相の風紀などを論じる長大な上疏を奉った(要旨は西夏・契丹への備え、賢才の登用、簡素な統治)。
晩年と人物
- 諸将との不和から忻州刺史に転じることを願い出、契丹の侵犯に際しては再び車駕出兵を上請。咸平四年、滄州に転じる道中で病没、享年54。子の渉は三班奉職に叙された。
- 射を得意とし囲碁を好んだ。文集15巻、家戒千余言を刻石して子孫に示した。倜儻で義を重んじ、大名で困窮した士人に白金百余両と数万銭を与えて助けた逸話がある。兄の肩吾は御史に至り、その子の湜・灝・沆はいずれも進士に及第、灝は祕書丞となった。