宋史卷四百四十 列傳第一百九十九 宋準

生涯

  • 宋凖、字は子平。開封雍丘の人。祖父の彦升は庫部員外郎、父の鵬は秘書郎。開宝年間、翰林学士李昉が知貢挙のとき甲科に抜擢された。
  • ところが貢士の徐士廉が登聞鼓を撃って李昉の取捨の不当を訴えたため、太宗は怒って凖を便殿で再試させ、その堂々たる容姿と敏速な受験ぶりに感嘆し、首席に相応しいとして再び甲科に抜擢、祕書省秘書郎直史館とした。
  • 八年、諸道の図経の修定を命じられ、契丹への使者としても功を挙げた。翌年、南平軍知事に出て軍を太平州に改めた際にはそのまま知州事となり著作佐郎を加えられた。太平興国四年、著作郎に遷り梓州通判、左拾遺。朝廷に戻り諸書の編修に携わり、八年に同知貢挙、河北転運使を経て本官のまま知制誥。
  • 雍熙中、主客員外郎を加え再び知貢挙、大理寺の裁判を判じた。端拱二年、病により金部郎中に遷って知制誥を罷め、同年52歳で卒し、銭百万を賜った。
  • 容姿風儀に優れ弁舌巧みで、赴任先では常に治績があった。盧多遜が左遷された際、同門生であった李穆が連座して免職となったとき、周囲が誰も弁護しない中、凖は李穆の人柄の正しさを訴え、多遜とは徒党ではないと奏上、太宗は納得し、まもなく李穆の旧官を全て回復させた。世人はこれを称えた。
  • 天禧三年、子の大年が祕書省校書郎に試補された。従弟の可観は金部郎中、族子の郊・祁はともに天聖二年の進士甲科で、別に伝がある。