魏了翁
- 字は華父、卭州蒲江の人。幼少より聡明で、15歳で「韓愈論」を著した。慶元五年進士。剣南西川節度判官庁公事。開禧元年、韓侂胄の対金開戦策に反対する上奏を行い、内政の立て直しを優先すべきと論じた。侂胄はこれを容れなかったが、御史徐柟の弾劾を受けても罪には問われなかった。
- 呉曦の反乱を予見した。侂胄誅殺後の朝廷改革に加わったが、史彌遠の専政を見て召命を辞退した。父の喪に服し、白鶴山下に室を築いて輔広・李燔門下の学問を蜀に広めた。
- 漢州知事として善政を行い(積年の逋租二十余万を免除し、酒の専売強制を除去し、婚姻訴訟の弊害を是正した)、眉州知事として礼教振興に努めた(学宮での講説、貢士定員増加、蟇頤堰築造等の民生事業)。
- 潼川路提点刑獄公事、転運判官として吏の不正を糾し、周敦頤・張載・程顥・程頤の贈爵・諡号を求める上奏を行った。遂寧知事代行として辺防のため城郭修築を強行し、翌年盗賊来襲に備えができていた。
- 潼川府知事等を経て召され、疏二千余言(人と天地の一体性、人材・風俗の五事、郡邑の強幹弱枝の弊害)を上奏した。兵部郎中、司封郎中兼国史院編修官として江淮襄蜀を四重鎮とする防衛構想を提言した。
- 太常少卿兼侍立脩注官、秘書監、起居舎人として時局五策(時機を察して天命に応じる、道義を尊び法を厳守する、衆知を集める等)と士大夫の風俗の弊害(面従腹誹)を論じ、時の宰相の不興を買った。
- 寧宗崩御・理宗即位後、起居郎として天変への対応と、済王の不当な処遇(葬儀の粗略さ)への異議を上奏した。李知孝の弾劾で洪咨夔・胡夢昱らが処罰される中、了翁も疾を理由に退いたが、集英殿脩撰知常徳府を経て、諫議大夫朱端常の弾劾(欺世盗名の罪)により三官降格・靖州居住処分となった。
- 靖州で『九経要義』百巻を著述した。紹定四年復職し、瀘州知事として城郭・武備の整備、学校興隆等の治績を挙げた。史彌遠死後、華文閣待制に進み「十弊十復」論(三省の典を復す等の十項目)を上奏し、理宗に大いに感銘を与えた。
- 権礼部尚書兼直学士院として君子小人の弁別、故相(史彌遠)の失政十項目、修身斉家、和議・北軍・軍実財用に関する提言を連発した。端明殿学士同簽書枢密院事督視京湖軍馬として出征したが(朝論はこれに反対した)、開府して将帥の統制・辺防策を展開したものの朝廷の掣肘を受け召還された。
- 資政殿学士湖南安撫使知潭州、知紹興府浙東安撫使、知福州福建安撫使を歴任し致仕を求め続けたが許されず、病篤くなり遺奏を口授して没した。贈太師、諡は文靖。
- 著書に『鶴山集』『九経要義』『周易集義』『易挙隅』『周礼井田図説』『古今考』『経史雑抄』『師友雅言』がある。