真徳秀
- 字は景元(後に景希と改めた)、建の浦城の人。4歳で読書を始め、15歳で孤となり、母呉氏の窮乏の中で学問を続けた。慶元五年進士、南剣州判官を経て博学宏詞科に及第。太学正、嘉定元年に博士となった。
- 韓侂胄誅殺後の対金政策について上奏し、和議条件の緩和が敵に付け入る隙を与えると警告し、偽学の禁が忠良の士を排斥した弊害を批判して名節の表彰を求めた。
- 秘書省正字兼検討玉牒、秘書郎として天変(暴風・雹・熒惑・蝗害)は賍吏(汚職官吏)の所致であると論じた。起居舎人として権姦の専政十四年の弊害を論じ、朱熹・彭龍年らの排斥や呂祖倹・周端朝・呂祖泰の処罰を批判し、更化後も直言の士が退けられる風潮を憂慮した。
- 楮幣・鈔法濫発による告訐横行、無実の重罰、財産没収の弊害を批判し、籍没財産の返還を実現させた。金国の内乱を予見して金人必亡論を上奏し、江北の屯田・武備強化策を提言した。
- 史彌遠の専権を憂い、劉爚に「早く身を引くべきだ」と語り、秘閣脩撰・江東転運副使に転出した。金への通聘への反対、辺防強化の必要を上奏した。
- 江東の旱蝗災害(広徳・太平が最も甚だしい)に対し積極的な荒政を実施し、廩を発いて賑済し、不正な斛面米や私創大斛を摘発し、腐敗官吏を弾劾した。泉州知事として海外貿易を振興し(苛税緩和で来航船が3~4隻から36隻に増加した)、訟獄を公正に処理し、海賊を討伐した。
- 隆興府知事、湖南安撫使知潭州として周敦頤・胡安国・朱熹・張栻の学統を掲げて僚属を励まし、榷酤(酒の専売)廃止、和糴免除、義倉・社倉整備、慈幼倉設立等の民生策を展開した。武岡県の軍変を鎮圧した。
- 理宗即位後、中書舎人、礼部侍郎直学士院として三綱五常の重要性を説き、済王(廃太子)への処遇の不当性を論じる直言を行い、賄賂の横行を批判し、老成の士の登用を求める上奏を行った。喪礼の先例(孝宗の三年の喪)を引き、寧宗小祥での純吉服着用に反対した。
- 史彌遠一派に忌避され煥章閣待制提挙玉隆宮となり、諫議大夫朱端常らの弾劾で落職した。修養に専念しつつ門人を指導し、汀州の盗賊平定を陳韡の推薦により実現させた。
- 泉州知事再任時、先借税の禁止、訟獄の公正な処理で民心を得た。金滅亡後の対金軍事政策(江淮の無用な出兵を戒める)を上奏した。戸部尚書として『大学衍義』を進呈し、翰林学士知制誥、参知政事を歴任したが病により資政殿学士提挙万寿観兼侍読で致仕、間もなく卒した。
- 評: 長身広額、公輔の器と目された。在朝十年に満たないが数十万言の直言を行った。偽学の禁後、道学の正統を天下に明らかにした功績が大きいとされる。著書に『西山甲乙藁』『対越甲乙集』『経筵講義』『端平廟議』『翰林詞草』『四六』『献忠集』『江東救荒録』『清源雑志』『星沙集』。諡は文忠。