楊時から程頤の門へ通じた豫章先生
- 羅從彦、字は仲素、南劍の人。累挙の恩により恵州博羅県主簿となった。同郡の楊時が河南程氏の学を得たと聞いて慨然としてこれを慕い、時が蕭山令となると徒歩でこれを学びに行った。時は熟察してから喜んで「ただ従彦のみ道を語るに足りる」と言い、これより日々親しくなった。時の弟子は千餘人あったが従彦に及ぶ者はいなかった。従彦は初めて時に見えたとき三日のうちにすぐ驚汗浹背し「ここに至らなければほとんど一生を虚しく過ごすところであった」と言った。かつて時と易を講じ、乾九四の爻に至って「伊川の説は甚だ善い」と言われると、従彦はすぐに田を鬻いで洛に走り頤に見えてこれを問い、頤は反復してこれを告げると、従彦は謝して「龜山(楊時)に聞いたことで具わっている」と言い帰って沙県で卒業した。陳淵は楊時の婿であり、かつて従彦を訪ねると必ず終日過ごしてから返り、人に「私が仲素と交わってより日々未だ聞かなかったことを聞く。奥学清節はまことに南州の冠冕である」と語った。既にして山中に室を築き仕進の意を絶ち終日端坐し、間には楊時に将楽の渓上で謁見しては吟詠して帰り、常に充然として自ら得るところがあった。かつて祖宗の故事を採って「遵堯録」を作り、靖康中これを闕下に献じようとしたが国難に遭って果たさなかった。学者と治を論じて「祖宗の法度は廃すべきでなく徳沢は恃むべきではない。法度を廃せば変乱の事が起こり、徳沢を恃めば驕逸の心が生じる。古来徳沢の最も厚いのは堯舜に若くものはないが、もし子孫を恃むべきなら堯舜は必ずその子に伝えたはずである。法度の明らかなのは周に如くものはないが、もし子孫が世々文武成康の遺緒を守るべきなら今に至るまで存していよう」と言い、また「君子が朝にあれば天下は必ず治まる、君子が進めば常に乱世の言があり人主に多く憂えさせ善心を生じさせるからこそ治まる。小人が朝にあれば天下は乱れる、小人が進めば常に治世の言があり人主に多く楽しませ怠心を生じさせるからこそ乱れる」と言い、また「天下の変は四方に起こらず朝廷に起こる。たとえば人の傷気には寒暑が侵しやすく、木の傷心には風雨が折りやすいようなものだ。内に李林甫の姦があれば外には必ず安禄山の乱があり、内に盧杞の姦があれば外には必ず朱泚の叛がある」と言った。その士行を論じて「周孔の心は人に道を明らかにさせる。学ぶ者が果たして道を明らかにできれば周孔の心は自ずと深く得られる。三代の人材は周孔の心を得て道を明らかにする者が多かった、ゆえに死生去就を寒暑昼夜の移りのように見て忠義を行う者は易かった。漢唐は経術古文を相尚び周孔の心を失った、ゆえに経術は董仲舒・公孫弘よりこれを倡え古文は韓愈・柳宗元よりこれを啓いたが、これにより道を明らかにする者は寡なくなった、ゆえに死生去就を万鈞九鼎の重さのように見て忠義を行う者は難くなった。ああ、学ぶ者の見るところは漢唐より喪われた」と言い、また「士の朝に立つは正直忠厚を本とすべし。正直であれば朝廷に過失なく、忠厚であれば天下に嗟怨なし。正直に偏って忠厚でなければ次第に刻に入り、忠厚に偏って正直でなければ懦に流れ入る」と言った。その議論は醇正なることこの類であった。朱熹は「龜山は道を東南に倡え、その門に遊ぶ士は甚だ多かったが、潜思力行し重きを任じ極みに詣ることは仲素一人のみであった」と言った。紹興中に卒し、学者はこれを「豫章先生」と称した。淳祐間、諡「文質」。