宋史卷四百二十八 列傳第一百八十七 楊時
楊時、字は中立。南劍将楽の人で程顥・程頤にともに師事し、程氏の学を南方に伝えた龜山先生。地方官・言官として活動し、王安石の学を廟庭祭祀から退けさせるなど直言を貫いた。
程氏の学を南に伝えた龜山先生
- 楊時、字は中立、南劍将楽の人。幼くして頴異で文をよくし、稍長ずるに経史に潜心した。熙寧九年、進士に中第した。時に河南の程顥は弟の頤と共に熙豊の際に孔孟の絶学を講じ、河洛の士は翕然としてこれを師とし、時は官に調されても赴かず師の礼をもって頴昌で顥に見え、意気投合した。帰るとき顥は目送して「私の道は南に行った」と言った。四年後に顥が死ぬと時はこれを聞いて位を設けて寝門で哭し書をもって同学の者に告げ、これに至りまた程頤を洛に見た、時は年四十であった。ある日、頤に会うと頤がたまたま瞑坐していたので時は游酢と共に立って侍り去らなかった、頤が既に覚めると門外の雪は深さ一尺であった。関西の張載がかつて「西銘」を著すと二程はこれを深く推服したが、時はこれが兼愛に近いのではと疑い、その師の頤と辨論の応酬を重ねて理一分殊の説を聞いて豁然として疑いがなくなった。門を杜して仕えなかったこと十年、久しくして瀏陽・餘杭・蕭山の三県を歴知し、皆恵政があり民はこれを思って忘れなかった。張舜民が諫垣にあってこれを推薦し荊州教授を得たが、時は州県に安んじて聞達を求めなかったが徳望は日々重くなり、四方の士は千里を遠しとせずこれに従って遊び「龜山先生」と号した。
- 時に天下は多故で、蔡京にこれを言う者があり「事がここに至れば必ず敗れる。宜しく旧徳老成の者を引いて左右に置き幾ばくかは及ぶべし」と言い、宰相はこれを是とした。たまたま高麗への使者があり国主が龜山の在り処を問い、使者が帰って聞くと召されて秘書郎とし著作郎に遷った。面対に及んで「堯舜は『允に厥の中を執れ』と言い、孟子は『湯は中を執る』と言い、洪範は『皇は其の極を建つ』と言い、歴代の聖人はこの道による。熙寧の初め大臣は六芸の言を文って私を行い祖宗の法を紛更しほとんど尽きた。元祐がこれを継いで祖宗の旧に尽く復し、熙寧の法は一切廃革された。紹聖・崇寧に至ってはさらに甚だしく、凡そ元祐の政事で令甲に著されるものは皆焼いてその跡を滅ぼしました。これより二党に分かれ縉紳の禍は今に至るも殄びません。臣は願わくは明詔して有司に祖宗の法を条具させ綱目として著し、今に宜しきものは挙げてこれを行い、損益すべきものは損益し、元祐熙豊はしばらく問わずに置き、一に中に趨るだけにすべきです」と奏した。朝廷はまさに燕雲を図って内を虚しくし外を事としていたが、時は遂に時政の弊を陳べ、燕雲の師は退いて内地を守り輸送の労を省くべきで、辺民を募って弓弩手として常勝軍の勢いを殺すべきと言い、また「都城は四逹の衢に居り高山巨浸の阻衛がなく、士は異心を懐き緩急に倚仗できません」と言った。執政は用いなかったが、登対して君臣が警戒するのはまさに無虞の時にあると力陳し、宣和会計録を作り天下財物出入の数を周知することを乞い、徽宗は首肯した。邇英殿説書に除された。金人の入攻を聞いて執政に「今日の事勢は積薪のようで既に然っており、まさに自ら奮励して観聴を竦動させるべきです。もし怯懦の形を示して委靡不振であれば事は去ってしまいます。昔、汲黯が朝にあり淮南が謀を寝めたのは、黯の才が必ずしも公孫弘らに勝るわけではなく、ただその直気が姦雄の心を鎮圧できたからです。朝廷の威望が振るわず姦雄を弘らと同様に見なされれば、もはやなす術がありません。要害の地は厳しく守備すべきで、都城に至ってからでは間に合いません。近辺の州軍は堅壁清野して彼らと戦わず自ら困らせるべきで、もし攻戦略地するなら援兵を遣わして追襲させ腹背から敵を受けさせて制勝すべきです」と言い、また「今日の事はまさに人心を収めることを先とすべきです。人心が附かなければ高城深池堅甲利兵があっても頼りにできません。免夫の役は海内を毒し、京城の花石の聚斂はその害がことに甚だしく、以前これを罷めたことがありましたが詔墨も乾かぬうちに花石供奉の舟がまた続いてしまいました。今、前令を復し申したとはいえ禍根が除かれなければ誰がこれを信じましょうか。人和を致すにはこの三つを去ることが今日の先務です」と言った。金人が京城を囲むと勤王の兵が四方から集まりながら統一されていなかったので、時は唐の九節度の師が統帥を立てなかった事を挙げ、李郭のような善用兵の将でもなお敗衄を免れなかった、今、諸路の烏合の衆は統帥を立て号令を一にし紀律を示してから士卒がようやく命を用いるべきだと言い、また童貫が三路の大帥として敵人が疆を侵すと軍を棄てて帰った罪は拏戮しても余りあるのに朝廷は問わずに置き、梁方平・何灌が相継いで遁れたのも当に典刑を正して臣子不忠の戒めとすべき、童貫は兵を握ること二十餘年、覆軍殺将して今日に馴致し、比べて聞くに防城になおも閹人を用いており覆車の轍を復た踏むべきでないと言った。疏が上ると右諌議大夫兼侍講に除された。敵兵が初め退くと議者は三鎮を割いて講和しようとしたが、時は「河朔は朝廷の重地であり三鎮はその河朔の要藩である。周の世宗より太祖太宗に至るまで百戦して後にこれを得たのに、一旦棄てて北庭が敵騎に疾馳させれば我が腹心を貫くこと数日ならぬうちに京城に至る。今聞くに三鎮の民は死をもってこれを拒んでいる、三鎮がその前を拒み我が重兵がその後に躡めば尚なすべきことがある」と極言してその不可を説いた。种師道・劉光世は皆一時の名将であり至ったばかりでまだ用いられていなかったので、召して方略を問うことを乞った。疏が上って欽宗は出師を詔したが議者は多く両端を持していた。時は上疏して「聞くに金人は磁相に駐まり大名を破り、劫虜駆掠は紀極なし。誓墨も乾かぬうちに背は踵を旋らさず、我はたとえ専守を欲しても和議は得られない。夫れ数千里の遠きを越えて人の国都を犯すのは危道である。彼は勤王の師が四面から集まるのを見てまた懼れて帰るのであり、我を愛して攻めないのではない。朝廷が三鎮三十州の地を割いてこれに与えるのは、寇を助けて自ら攻めるようなものだ。聞くに肅王は初めこれと河に及んで返る約をなしながら今これを挟んで行った、これは敗盟の大なるものだ。臣は竊かに謂う、朝廷は肅王をもって問いとし、その敗盟を責め必ず肅王を得るべきである」と言った。太原が数月囲まれていたとき姚古が兵を擁して逗留し進まなかったので、時は上疏して古を誅し軍政を粛正し将たりうる偏裨に代えることを乞ったが報われなかった。
- 李綱の罷免に太学生が闕に伏して上書し綱と种師道の留任を乞い、軍民の集まる者は数十万に及び朝廷はこれを防禁しようとしたが、呉敏が時を用いて太学を靖めることを乞い、時は召対に召され「諸生の伏闕は紛紛としているが朝廷への忠から他意はありません。ただ老成有行誼の者を長貳とすれば自ずと定まるでしょう」と言うと、欽宗は「卿に及ぶ者はいない」と言い、時に国子祭酒を兼ねさせた。まず「三省の政事は所出、六曹は分治して各々攸司がある。今、別に官属を辞していれば新進の少年は必ずしも六曹の長貳より賢いとは限らない」と言った。また蔡京が用事すること二十餘年、国を蠧し民を害しほとんど宗社を危うくしたことを言い、人はこれを切歯するが、その罪を論じる者はその根本を知らない。京は神宗を継述すると称し実は王安石を挟んでその身の利を図り、ゆえに安石を推尊して王爵を加え孔子廟庭に配饗した。今日の禍は実に安石がこれを啓いたものであり、謹んで按ずるに安石は管商の術を挟んで六藝を飾って姦言を文り祖宗の法度を変乱した。当時、司馬光は既にその害が数十年の後に見えると言っていたが、今日の事はまるで符に合するようである。その邪説を著して学者の耳目を塗り心術を壊すものは縷々挙げきれない。しばらく一二の事でこれを明らかにするなら、昔、神宗は漢文帝が百金を惜しんで露台を罷めたのを称賛したところ、安石は「陛下がもし堯舜の道をもって天下を治めることができるなら、たとえ天下を竭くして自らを奉じても過ぎたことにはならない。財を守る言は正理ではない」と言い、堯舜が茅茨土階、禹が「克く家を倹にす」と言ったことをまるで知らなかった。天下を竭くして自ら奉じるようなことは必ず堯舜の道ではない。その後、王黼は応奉花石の事で天下の力を竭くして享上と号したが、実に安石がこれを倡えたものである。その鳬鷖守成の詩を末章で釈するのに「道をもって成を守る者は羣衆を役使して泰にして驕らず、宰制万物して費して侈らず、いずれ弊弊然として愛を事とすることはない」と言い、詩の言うところは正しく盈を持することができれば神祇祖考が安楽にして後艱がないことを言っているのに、古来これを釈する者は「泰にして驕らず費して侈らず」という説をいまだ持たなかった。安石は独りこの説を倡えて人主の侈心を啓いた。後の蔡京らが軽費妄用して侈靡を事としたのは安石の邪説の害がこのようなものだったからだ。伏して望むらくは王爵を追奪し明詔中外して配享の像を毀して、邪説滛辭を学者の惑わすことのないようにしてください」と疏を上ったところ、安石は遂に従祀の列から降された。王氏の学を習って科第を取った士は既に数十年にわたり復たその非を知らなかったのに、忽ちこれを邪説として聞き議論が紛然とし、諌官の馮澥は力めて王氏を主張し時を詆る疏を上げ、学官の中に紛争がある者があると学官を並びに罷めよとの旨があり、時もまた祭酒を罷められた。時はまた「元祐党籍の中でただ司馬光一人が独り褒顕されて呂公著・韓維・范純仁・呂大防・安燾らに及ばず、建中初め言官の陳瓘は既に褒贈されて鄒浩に及んでいない」と言い、これにより元祐の諸臣は皆次第に牽復された。まもなく四たび章を上げて諫省を罷めることを乞い、給事中に除されると辞して致仕を乞い、徽猷閣直学士提挙嵩山崇福宮に除された。時は力めて直学士の命を辞し、徽猷閣待制提挙崇福宮に改め除された。陛辭してなおも上書して将を選び兵を練り戦守の備えとすることを乞うた。高宗の即位、工部侍郎に除され陛対で自古聖賢の君は典学を務めないものはなかったと言い、侍読を兼ね建炎会計録の修建を乞い、勤王の兵を恤むことを乞い、言者への寛仮を乞い、連章して外を丐い龍図閣直学士提挙杭州洞霄宮とされ、まもなく告老し本官をもって致仕し、林泉に優游して著書講学を事とし卒した、年八十三、諡「文靖」。時は東郡にあって交わるところは皆天下の士であり、先達の陳瓘・鄒浩は皆師礼をもって時に事えた。渡江に及んで東南の学者は時を程氏の正宗と推し、胡安国と往来講論することがことに多かった。時は州県に浮沈すること四十有七年、晩年に諫省に居ることわずか九十日、論列するところは皆世道に切であり、その大なるものは王氏経学を闢き靖康の和議を排したことで、邪説をなさせなかった。凡そ紹興初め元祐学術を崇尚し朱熹・張栻の学が程氏の正を得たのは、その源委脈絡は皆時に出る。子の廸は力学し経に通じ、かつて程頤にも師事したという。