宋史卷四百二十八 列傳第一百八十七 李侗

李侗(延平の人)は程頤の孫弟子にあたる道学者で、羅従彦に師事し楊時から連なる道学の系譜(程頤―楊時―羅従彦―李侗)を継いだ。仕官せず四十年にわたり延平に隠棲して学を講じ、その学統は後の朱熹に受け継がれた。

延平で四十年隠棲した程氏の孫弟子

  • 李侗、字は愿中、南劍州劍浦の人。年二十四のとき郡人の羅従彦が河洛の学を得たと聞き、書をもってこれに謁見を求めた。その略に「侗は聞く、天下に三本がある、父はこれを生み師はこれを教え君はこれを治める。その一を闕けば本は立たない。古の聖賢は皆師があった、その業を肄うことの勤惰、道に渉ることの浅深、益を求めることの先後は、あるかないかその詳しくは考えようがない。ただ洙泗の間、七十二弟子の徒の議論問答は具に方冊にあり考えるに足るものがある、これは夫子を得てますます明らかになったことである。孟氏の後、道は伝を失い枝分派別し自ら門戸を立て天下の真儒は復た世に見えず、その徒を聚めて群れをなし相い伝授するところは句読文義に過ぎず、これを『熄む』と言ってよかろう。ただ先生は龜山先生の講席に服膺すること年あり、況やかつて伊川先生の門に及んで千五百年の後に不伝の道を得、性は明にして修行は完くして潔く、これを広大をもって拡げ仁恕をもって体し、精深微妙は各々その至りを極める。漢唐の諸儒には近似する者もない。至って言わずして人を飲ませることは和をもってし、人と並び立って人を化すことは春風の物を発するようで、それが然る所以を知る者はいない。凡そ聖賢の書を読み粗識見のある者は誰が門下で経を授かることを願わないだろうか、疑いを質すのに。異論の人に至っては固より置いて論ぜぬべきである。侗の愚鄙は徒に挙子業を習うのみで門下に服役できないが、今日拳々として教えを求めるのは求めるところが利禄より大なるものがあると謂うからである。抑も侗が聞くに道は心を治めることができ食が飽きを充たし衣が寒を禦ぐようなものである。人は饑寒の患いに廹れば皇々として衣食の謀をなし造次顛沛にも未だかつて忘れることがない。心の治まらないことに至っては没世まで慮ることを知らないことがある、どうして心を愛することが口体に若かないだろうか、思わないことが甚だしい。侗は資質の陋なるを量らず、徒に祖父が儒学をもって家を起こしたことにより箕裘の業を墜とすに忍びず、孜々矻矻として利禄の学をなしているが、真儒が作すことがあると知れば風を聞いて起こることはあっても固より先生に親炙して動静語黙の間に得、目撃して意が全くなるのに若かない。今、年二十有四、茫として止まるところがなく、燭理は未だ明らかでなく是非は弁じようがなく、宅心は広からず喜怒に揺れやすく、操履は完からず悔吝が多く、精神は充ちず智巧が襲い揀ぶことなく守ることも敷かず、朝夕恐懼することあたかも饑寒の身に切なる者が饑を充たし寒を禦ぐ具を求めるようである。しからずんばどうして敢えて不肖の身をもって先生の累いとなろうか」とあった。従い累年、春秋・中庸・語孟の説を授かった。
  • 従彦は静坐を好み、侗は退いて室に入るとまた静坐した。従彦は静中で喜怒哀楽未発前の気象を看てそのいわゆる中なるものを求めさせ、久しくして天下の理においてこれを該摂し洞貫し次第に融釈し各々条序があるようになった。従彦はしばしばこれを称許した。既にして山田に退居し世故を謝絶すること餘四十年、飲食は満たされぬこともあったが怡然として自適し、親に事えて孝謹、仲兄は性が剛で忤いが多かったが侗はこれに事えてその歓心を得た。閨門の内外は夷愉粛穆として人声がないようであっても衆事は自ずと理まり、親戚に貧しくて婚嫁できない者があれば経理してこれを振助し、郷人と処し飲食言笑して終日油油としていた。後学に接して答問に倦むことがなく、人の浅深に随って教えを施すとはいえ必ず自ら身を反り自ら得ることから始めた。ゆえにその言に「学問の道は多言にあらず、ただ黙坐澄心して天理を体認するだけである、もしこのようであれば一毫の私欲の発するもまた退聴する」とあり、また「学ぶ者の病は洒然として氷解凍釈する処のないことにある。孔門の諸子が群居終日して交々切磨し合い、また夫子を依帰として得るように、日用の間の観感して化する者が多い。融釈して脱落しない処に至れず、言説の及ぶところではない」と言い、また「書を読む者はその言うところが吾が事でないことはないと知って吾が身に即してこれを求めれば、凡そ聖賢の至ったところで吾がいまだ至らぬところは皆勉めて進めることができる。もし直接文字にこれを求めて誦説に資すれば、物を玩んで志を喪わない者はほとんどいない」と言い、また「講学は切に深潜縝密であるべきで、然る後に気味が深長になり蹊径が違わない。もし理は一つであると概括するばかりでその分の殊なることを察しなければ、学ぶ者が疑似乱真の説に流れて自らこれを知らない所以である」と言った。かつて黄庭堅が濂溪の周茂叔の胸中灑落として光風霽月の如しと称したのを、有道者の気象をよく形容していると考え、しばしばこれを諷誦して学ぶ者に「これを胸中に存すればほとんど事に遇って廓然として義理が少し進むだろう」と語った。その中庸を語って「聖門の伝えるこの書は後学を開悟する所以に遺策がない、しかしいわゆる喜怒哀楽未発これを中と謂うものはまた一篇の指要である。もし徒に記誦するだけならまた何をなすだろうか。必ずこれを身に体して実にこの理を見る、顔子の歎のように卓然として心目の間に見るところがあるかのようであってから拡充して往きどこにも通じないところがなくなる、その後にようやく中庸を言うことができる」と言った。その春秋を語って「春秋の一事はそれぞれ一例を発明するもので、山水を観るように歩みを徙して形勢が異なるようなもので一法をもって拘ることはできない。しかし言いがたいのは常人の心をもって聖人を推測するからで、聖人の未だ達しない所も聖灑然とした処を知ることができない」と言った。侗は既に閑居して世に意なきかのようであったが、時を傷み国を憂え事を論じるに感激して人を動かした。かつて「今日、三綱は振るわず義利は分たれない。三綱が振るわないので人心は邪僻となり任用に堪えず、これによって上下の気が間隔し中国は日々衰える。義利が分たれないので王安石が用事してより人心を陥溺させ今に至るまで自覚がない。人は利に趨って義を知らず、これでは主の勢いは日々孤立する。人主はここに留意すべきで、そうでなければいわゆる『粟あれど吾は食えるのか』ということになる」と言った。時に吏部員外郎の朱松は侗と同門の友であり侗を雅に重んじ、子の熹を遣わして侗に従学させ、熹は卒にその伝を得た。沙県の鄧廸はかつて松に「愿中(李侗)は氷壺秋月のように瑩徹して瑕がなく、私たちの及ぶところではない」と語り、松はこれを言を知ると謂い、熹もまた侗の資稟は勁特で気節は豪邁でありながら充養は完粋で圭角なく、精純の気は面目に達し色は温、言は厲、神は定まり気は和み、語黙動静は端詳閑泰で自然の中に成法があるようであり、平日は恂恂として事に無可無不可であるが、その酬酢事変に及ぶと義理をもって断じて截然として犯すべからざるものがあると称し、また侗に学びに行っては辞去し復た来るごとにその聞くところがますます超絶し、その上達がやまないことはこのようだったと言った。侗の子の友直・信甫は皆進士に挙げられ、吏に試して旁郡を歴任、更に迎養を請うと歸り道すがら武夷を経て、たまたま閩帥の汪応辰が書幣をもって迎えたのでこれに徃見したが、至った日に疾が起こり遂に卒す、年七十有一。信甫は仕えて監察御史に至り衢州を知り広東・江東憲に抜擢されたが特立して朝に容れられなかったという。