宋史卷四百二十六 列傳第一百八十五 魯有開

旱魃を見越した先見の吏

  • 魯有開、字は元翰、参知政事魯宗道の従子。礼学を好み左氏春秋に通じ、宗道の蔭により韋城県を知る。曹・濮の凶盗が横行し旁県まで及んでいたが有開の名を聞くと境に入らなかった。確山県を知るとき大姓が官政を把持していたが、有開はその最も甚だしい者を治め、遂に無事のうちに廃陂を興し民田数千頃を灌漑した。富弼が蔡を守ったとき有開を推挙し「古の循吏の風がある」とした。金州を知るとき蠱獄で死に当たる者が数十人あったが、有開は「人を殺そうとするなら密かに謀るだけで足りる。どうしてこう露見するようなことがあろう」と言い、これを訊すと誣告と分かり、獄が明らかになると雨が降った。南康軍を知り代わって還ったとき、熙寧の新法施行のさなか王安石が江南の様子を問うと「法は新しく行われたばかりでまだその弊害は見えないが、いずれ問題になるだろう」と答え、その対答が異例であるとして杭州通判に出された。衛州を知るとき水災で人が食に乏しくなると、常平銭粟を独断で貸し与え、さらにその息を蠲除するよう奏請した。冀州に転じ堤を増したとき、ある者が「郡に水患もないのになぜ役を興すのか」と言ったが、有開は「予め備えるのは古の善計である」と答え遂に完成させた。翌年河が決壊して水が果たして至ったが、堤を冐すことなく止まった。朝廷が河北に使者を遣わすと民は有開の功状を訴え、召されて膳部郎中となった。元祐中、信陽軍・洺州・滑州を歴知し、また冀州を守り官は中大夫に至って卒した。