律を曲げなかった清廉の吏
- 崔立、字は本之、開封鄢陵の人。祖の周度は周に仕え泰寧軍節度判官となり、慕容彦超が叛くと大義をもってこれを責め、遂に殺害された。立は進士に及第し果州団練推官となった。役兵が官物を輦するとき道が険しいので衆銭を率いて舟を傭い運んだところ、知州の姜従革は率斂の法に照らして斬に当たるべしと論じたが、立は「これは私の罪ではない」と言い三人を杖するに止めた。従革は初め聴かなかったが遂に論奏し詔で立の議の通りとされた。真宗はこれを記憶し特に大理寺丞に改め安豊県を知らせた。大水で期斯塘が壊れると立は自ら督して繕治し、月を踰えて成った。殿中丞に進み広州・許州の通判を歴任、滑州で決河を塞ぐことになり民から芻楗を出させたとき、立に受納を提挙させると、立はその用を計って余りがあり下戸で未だ輸していない者がなお二百万あることを見て、悉く奏じてこれを弛めた。江陰軍を知ったとき属県に利港があり久しく廃れていたのを立が民を教え濬治させ、成るや田数千頃を灌漑し、また横河六十里を開いて漕運を通した。太常少卿に累遷し、棣・漢・相・潞・兗・鄆・涇の七州を歴知した。兗州で歳に大飢が起こると富人を募って穀十万餘石を出させ饑者を振わせ、活かした者は甚だ多かった。立の性は淳謹で殊に論事を好んだ。大中祥符間、帝が既に封禅を行うと士大夫は争って符瑞を奏上し賛頌を献じたが、立は独り「水は徐州に発し、旱は江淮に連なり、無為の烈風、金陵の火は天がこれを以て驕惰を警め滛泆を戒めるものであり、区区たる符瑞などどうして治道のためになろうか」と言った。前後四十餘事を上言し、右諌議大夫として耀州を知り、濠州の知事に改め、給事中に遷って告老し、尚書工部侍郎に進んで致仕し卒した。布衣の頃から韓琦を識り娘を妻せた。人はその識見に服したという。