蜀に四度赴いた良吏
- 張逸、字は大隠、鄭州滎陽の人。進士に及第し試秘書省校書郎、襄州鄧城県を知って能名があった。知州の謝泌は逸を推挙しようとしたとき、まず几案を設け章をその上に置き闕を望んで再拝し「老臣は朝廷のために一人の良吏を得た」と言ってから奏上した。後日引見されると真宗が何の官を欲するか問い、逸は「母が老いて家にあります。近郷の一幕職官を得て帰って甘旨に奉じられれば足ります」と答え、澶州観察推官を授けられたが、数日で母の喪により職を去った。服除いて引見されると帝はまた固く問い、「京官を得たい」と答え特に大理寺丞に改められた。帝が泌を賢しとし逸を再び召し問うたのは泌の推薦によるものだった。長水県を知るとき、王嗣宗が西京留守で厚遇し、青神県に転じると貧しく自給できなかったため嗣宗が半年分の俸を仮して赴任の装いを整えさせた。県に至って学校を興し生徒を教え、後に邑人の陳希亮・楊異が相継いで登科すると、逸はその居を「桂枝里」と改名した。県の東南に松柏灘があり、夏秋に暴漲して舟を覆すことが多かったが、逸が江神に禱ると一月とたたぬうちに灘は五里ほど移り、時人はこれを異とした。太常博士に再遷し、尉氏県を知って監察御史・提点益州路刑獄・開封府判官に抜擢され、契丹への使いに出て両浙転運使となり、陝西に転じたが赴任せず河東に転じ、数月して復た陝西に転じ、龍図閣待制として梓州を知った。尚書兵部郎中に累遷し開封府を知ったとき、僧が内降を求めて田税を免れようとしたが逸は固く許さず、仁宗は「有司がよく法を守れば朕は何を憂えようか」と言った。また近ごろ命婦が禁中に干渉する恩が近来やや通じており、女謁を紏劾させるよう願い出て許された。
- 枢密直学士として益州を知り、逸は凡そ四たび蜀に至った。蜀の民風に精通しており、華陽の騶長が人を殺し道旁の行者を誣告したとき、県吏が財を受け獄が既に具わり殺人者に囚を守らせていたが、逸は「囚の顔色は寃であり守る者の気は直でない。どうして守る者が殺人者だろうか」と言い、囚がついに口を開き守る者は果たして服罪し、直ちに誅した。蜀人はこれを神と称した。歳旱に逸は堰を作らせ江水を壅いて民田を灌漑させ、自ら公租を出して価を減じ民を振った。当初、民は飢えて多くの耕牛を殺して食べ、犯した者は皆関中に配流されていたが、逸は「民が牛を殺したのは将に死のうとする命を活かすためであり、盗んで殺した者とは異なる。禁じなければまた穡事を廃することになろう。今歳は稔りが少ないので一切放して還らせ、業を復させたい」と奏し裁可された。まもなく官にて卒した。