宋史卷四百二十五 列傳第一百八十四 徐宗仁

経歴と忠諫

  • 徐宗仁、字は求心。信之永豊の人。淳祐十年(1250年)進士。国子監主簿として、開慶元年(1259年)伏闕上書し、賞罰は軍国の綱紀であり、それが明らかでなければ綱紀は立たない、今天下は器が傾き地に墜ちる寸前だと論じた。金幣・土田・節鉞・爵秩を陛下が危急の際に授けても死戦の者が現れない現状を嘆き、通国の「佚罰者」として丁大全・袁玠・沈翥・張鎮・呉衍・翁応弼・石正則・王立愛・髙鑄を挙げ、首悪は董宋臣であるとし、廷紳・学校の訴えにもかかわらず処罰されない現状を強く批判した。
  • 邊事も極論し、恵愛が偏り威が振るわない現状、宋臣が長年にわたり蒙蔽してきたことを指摘し、言責ある者すべてに直言を尽くさせれば国論が伸び国威が振るうと訴えた。国子監丞、祕書省著作佐郎、崇禧観主管、考功郎官兼崇政殿説書として敬天図を進読、太府少卿兼侍講兼侍立修注官、太常少卿兼国史編修実録検討、知寧国府を歴任するが監察御史郭閶の弾劾で罷免。
  • 徳祐元年(1275年)吏部侍郎兼中書門下検正諸房公事兼提領豊儲倉所兼同修国史実録院同修撰に起用され、督府名称で本州に赴き守臣と防拓を共にすることを願うが許されず、権禮部尚書兼益王府賛読として益王を輔け海上に走り、厓山の戦いで敗れて死んだ。