経歴と嵩之弾劾
- 徐霖、字は景説。衢州西安の人。十三歳で聖人の道を志し自作の文を焼き、六経・先儒心伝の要を深く探究した。淳祐四年(1244年)禮部試首位、知貢挙官が理宗に「第一名は人を得た」と嘉賞し及第。沅州教授のとき、宰相史嵩之が辺功をもって君を挟み党を植え国を専らにしていると上疏、その手口を「陛下の心を奪い、士大夫の心を奪い、豪傑の心を奪う」の三段階として詳述し、質柔で気弱な善類を選んで親任し異論を斥ける手法を鋭く批判した。人々は霖の身を危ぶんだが、嵩之が父の喪を匿って起復を求めると君子が一斉に攻撃、帝は大いに悟った。
- 丞相范鍾が霖の忠を思い館職試験の対象者を差し替え、霖の名を試したところ「人主に自強の志がなく大臣に患失の心があるゆえ元良(太子)が未だ建てられず凶姦が未だ竄されない」と答えた。祕書省正字に擢用され、日食に応詔上封事し「日は陽類天理君子である、我が心の天理が人欲に勝てず、朝廷の君子が小人に勝てず、宮闈の私昵が屏けられず瑣闥の姦衺が弁じられず台臣の討賊が決せられないため日食が起こる」と論じ、太子建立をたびたび求めた。校書郎に遷り、大旱に諫議大夫と京兆尹の更迭を求める疏を出して去国、姚希得に留められるが応じず、改秩の官命にも「かつて身の死を賭して主を欺かなかった、今官の高さのために本心を眩ませてよいものか」として辞退した。
- 通判信州の任命も辞退し続けるが、守臣の勧諭で就任、著作郎に累進、太子名の正化を再度求め、心存の法は敬にあると説いた。権尚佐郎官兼崇政殿説書として葉大有の隂柔姦黠を斥けるべきと訴えたが報われず、讒言により補外を求め知撫州として先賢を祠し租賦を寛くし饑窮を振済、悍将を誅し営砦を建て一月で政を挙げたが、言論により去る際は士民が道を塞いだ。知衡州・知袁州を歴任し外艱で哀毀し水漿七日絶った。開慶元年(1259年)主管崇禧観、景定二年(1261年)知汀州、翌年卒す。終わりに際し長子心亨に「生あれば死あり、古の聖賢も皆然り」と語った。尚書省は優異を加え一子への恩沢を賜り、度宗は祭田百畝を賜って直臣を旌した。衢守游鈞が精舎を築き霖を招いて講道させると聴衆三千余人に及んだという。