宋史卷四百二十四 列傳第一百六十三 黄師雍

黄師雍、字は子敬。福州の人。黄榦に学び太学を経て、史嵩之ら権臣の専横を弾劾する言官として活動し、正邪を明らかにして外物に動じない人柄で知られた。

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出自と経歴

  • 黄師雍、字は子敬。福州の人。少くして黄榦に学び太学に入り、寶慶二年(1226年)進士。楚州の官属として李全の反状を察知し、忠義軍別部都統時青が李全を討とうとして殺された時にも動じなかった。史彌遠の門を出るのを恥じて謁見せず、婺州教授として呂祖謙を法とする学政を行い、李宗勉・趙必願・趙汝談に推薦された。徐僑の清望を慕いつつも召命が重なる時期を避けて謁見を控え、僑はこれを賢とした。
  • 李宗勉が政府で丞相喬行簡に推薦するが、行簡が師雍と交わることを喜ばず、龍溪知事のまま転運使王伯大の推薦にとどまった。宗勉が史嵩之と入相する際、審察に召されたが宗勉は途中で卒し、嵩之が密かに親しみを示そうとしても師雍は応じなかった。博士劉応起が嵩之を初めて論じたことに対し嵩之が師雍の関与を疑い、御史梅杞に知興化軍から知邵武軍への差し戻しを命じさせた。応起が監察御史となると師雍も宗正寺簿から監察御史に拝され、金淵の秩を削り趙綸・項容孫・史肎之を斥け、正言李昴英・殿中侍御史章琰と共に嵩之竄斥を求めた。
  • 帝が感悟して嵩之に致仕を命じた際、劉克莊が詞頭を封還し嵩之を貼職守金紫光禄大夫観文殿学士として致仕させたが、師雍はこれを「観文の命は克莊が始めた朋邪」として克莊を弾劾し免所居官とした。章琰も克莊を弾劾、師雍はまた嵩之の家を隷張叔儀に籍する提案をし従われた。その後、昴英・琰が趙與□(KR0696、底本欠字。楊大異伝の趙與□と同一人物か)や執政を弾劾すると帝が怒り、鄭宷が二人を弾劾する際に師雍にも同調を求めるが独り従わなかった。宷が周坦・葉大有らを台に薦め程公許・江万里ら善類を攻撃、坦らと合流したため、師雍は孤立した。
  • 大旱に応詔した牟子才・李伯玉・盧鉞の言論が坦らを鋭く指すと、坦らが匿名書で三士を誣告した事件で師雍は「匿名書は条令が禁ずる、これは公論ではない」と榻前で弁じ、偽撰の跡を明らかにした。鉞が師雍を誉める疏を出すと宷は師雍と鉞の結託とみなしたが帝は聞かず、師雍を左司諫に擢した。宷が政府に入るも謝方叔・趙汝騰の弾劾で罷去。丞相鄭清之と旧知でありながら劉用行・魏峴の弾劾で清之の不興を買い、坦が清之の妻に讒言を仕掛けた話も伝わる。
  • 帝が師雍を侍御史にしようとすると清之が「そうなれば臣は留まれない」と反対、師雍は起居舎人兼侍講に転じ辞去を求めた。清之は師雍にわずかな譲歩を望むが「私は全人であろうとする、終に屈しない」と応じ、坦は数ヶ月後に師雍と髙斯得を共に弾劾して罷免した。清之の死後、再び左史として起用されるが江西転運使に転じ禮部侍郎の命が下った直後、江西の官舎で卒した。簡淡寡欲で靖厚、正邪の弁が明らかで外物を軽んじたため公論を博く採り、当官しても行いに愧じることがなかったと評される。