宋史卷四百二十四 列傳第一百六十三 洪天錫

経歴と宦官弾劾

  • 洪天錫、字は君疇。泉州晉江の人。寶慶二年(1226年)進士。広州司法長史として僚属の不正を糾し、通判建寧府として大水に常平倉を独断で開いた。監察御史兼説書に拝され、天下の患は宦官・外戚・小人にあると疏言し、董宋臣・謝堂・厲文翁を弾劾。理宗が文翁を庇護すると、天錫はこれを重ねて論じ、貴倖の姦が根柢に固まる前に法で処すべきと迫った。帝が御札で天錫に疏を改めさせようとしたが、天錫は「戒飭のみでは慿怙が張るだけ」と再論した。
  • 雨土の異変に応じ陰陽君子小人の弁を論じ、修内司の民害・地震・水害の非常を訴え、貧富の懸隔を語気強く批判した。呉民仲大論らが宋臣の田奪を訴えた事件では、御前提挙所と儀鸞司の管轄を巡り「中貴人が控えれば内外台は廃されたも同然だ」と論じ、宋臣と盧允升の悪を数え上げて弾劾した。最終的に御史印を返上し「明君は後人のため患を除くべき、遺してはならない」と述べたが、終宋世宦官が主威を弄べなかったのは彼の力によると評され、天錫自身は朝廷を去った。
  • 大理少卿・太常への遷転をいずれも拝さず、広東提点刑獄に至り知潭州で盗賊を鎮め先賢を尊んで治績を上げた。広東転運判官として貪吏を治め、祕書監兼侍講、福建転運副使を歴任するも辞退が続き、度宗即位後、侍御史兼侍読として召され、公田・関子・銀綱・塩鈔・賦役の五事を病民の要として疏言、朝廷の敢諫の士の不足を憂えた。工部侍郎兼直学士院、湖南安撫使知潭州、福建安撫使を歴任し、亭戸が塩を買うために家を破る惨状を初めて罷免した。刑部尚書に至り、致仕後も三度趣召を受けるも辞し、端明殿学士に加えられ卒す。正議大夫を贈られ諡文毅。清介な人柄で著書に『奏議』『経筵講義』『進故事』『通祀輯略』『味言』『発墨』『陽巖文集』。