経歴
- 孫夢觀、字は守叔。慶元府慈溪の人。寶慶二年(1226年)進士。桂陽軍教授、浙西提挙司幹辦公事、吏部架閣文字を歴任し、武学諭として輪対で「人主に憚りがなければ良い言葉が容れられず、玩び心があれば聞いても用いられない」と説いた。通判嚴州、武学博士、太常寺丞兼諸王宮大小学教授、大宗正丞兼屯田郎官、将作少監、知嘉興府兼右司郎官、将作監として、風憲の無力・封駁の空文化を批判し「道揆が明らかでなければ天下の権が倒れる恐れがある」と訴え当路の忌避を招いた。
- 知泉州兼提挙市舶、知寧国府として蠲逋減賦を実行、戸部の督賦が強圧的な際「委官して去るほうがましだ、民を苦しめて留まるより」と語り、担当官は夜逃げした。丞相董槐に亷吏として推挙され司農少卿兼資善堂賛読、輪対で内外の臣が私を全うするために陛下に頼っている現状を憂え、郡国の利を取り戻すべきと説いた。太府卿、宗正少卿兼給事中、起居舎人・起居郎を歴任、監察御史呉燧の弾劾で罷免され直龍図閣与祠を経て祕閣修撰江淮等路提点鋳銭司公事に至り、まもなく召され起居郎兼侍右侍郎給事中兼賛読兼国子祭酒権吏部侍郎として、寵賂の横行を強く諫めた。集英殿修撰知建寧府として租税を蠲め刑罰を省き循吏の風と称された。晩年、遺表を口授しながら諫言を忘れず、家は敗屋数間、義所当為をなす人であった。