宋史卷四百二十四 列傳第一百六十三 徐元杰
徐元杰、字は仁伯。信州上饒の人。陳文蔚・真徳秀に学び、地方官として善政を敷き、中央では丞相史嵩之の起復に強く反対するなど直言を貫いた。工部侍郎に至った夜に急死し、諡は忠愍。
出自と経歴
- 徐元杰、字は仁伯。信州上饒の人。頴悟で誦書一日数千言、陳文蔚(朱熹門人)に鉛山で学び、後に真徳秀に師事した。紹定五年(1232年)進士及第、鎮東軍節度判官庁公事、嘉熙二年(1238年)祕書省正字、校書郎として否泰剥復の理を奏し、右轄(宰相)の長期空席や皇子竑の後嗣・太子早立の必要を説いたが、諫官蒋峴が竑の立後論を排したため外補を求め祠を十二度上疏した。著作佐郎兼兵部郎官を経て知安吉州を辞し、淳祐元年(1241年)知南劍州となり峽陽の寇乱の渠魁八人を斬り他は釈放、延平書院で講学し訴訟を理で解決、租税自らの升で計らせるなど徳政を敷いた。
史嵩之の起復反対と最期
- 母憂を終え侍左郎官として宗社を心とすべきこと、駐蹕の奢侈を抑え質を尚ぶべきことを説き、崇教殿説書として仁宗の詔内降指揮に台諫の察挙を許した故事を説き明かした。将作監として揚雄大匠箴を献じ、旱害に洪範の天人感応論を極論。丞相史嵩之が父の喪に起復する詔が出た際、中外が敢えて言わない中、学校が叩閽で争い、元杰は輪対で「陛下が命令を軽々しく出せば人の言葉に沮まれず、陛下は陛下の礼を尽くし大臣は大臣の礼を尽くすべき」としつつも、大臣が畏天命・畏人言の心を持たず、家庭の変への哀戚の礼制を軽んじれば清議を犯すことになると強く諫めた。疏は朝野に伝誦され、帝も感じ入り、夜に御筆で四人の不才の台諫を黜け起復の命を止めた。
- 元老・旧徳が次第に召還される中、元杰も右司郎官・太常少卿兼給事中・国子祭酒権中書舎人を兼ね、杜範入相の際は軍国事に関する上書を数十通に及んだ。宗社の隠憂に触れるたびに筆を止め涙を流し、子弟にも見せずに草稿を削ったという。ある六月朔、輪当の侍立を暴疾で謁告し、工部侍郎に特拝され致仕の詔を受けた夜四鼓に卒した。
- 死の前日、左丞相范鍾を訪ね、翌日の奏事を察院劉応起に予告したが、その夜熱を発し、爪が裂けるほどの苦しみの末に死んだ。朝紳・三学諸生が弔問に訪れ驚愕し、帝は「前日侍立していたのになぜ急死したのか」と悼み銀絹二百を賻贈した。太学諸生が中毒死と訴え、蠻烟瘴雨の地にすら追いやられなかった忠臣がなぜ朝廷でこのような目に遭うのかと訴え、三学諸生が相次いで叩閽し台諫が交々奏した結果、臨安府が医者孫志寧と常時給仕した者を逮捕し取り調べたが、大理寺正黄濤は伏暑証と判断し二子は濤の弁明を受け入れた。獄は結局結審に至らなかったが、海内の人士は元杰の死を悼んだ。帝は官田五百畝・緡銭五千を賜い、諡は忠愍。