出自と地方官
- 孫子秀、字は元実。越州餘姚の人。紹定五年(1232年)進士。呉県主簿として、水仙太保と称する妖人を郡守王遂も治めかねる中、自ら赴いて廬を焼き像を砕き人を太湖に沈め妖を絶った。淮東総領所の中酒庫として督督宜興県囲田租を巡り、水害後の報告で総領の怒りを買うも「なぜ身の保全ばかり考えられようか」と力争した。滁州教授、知金壇県として保伍・経界を厳しくし訴訟を里正・鄰証の同行を要件として整理、淮民の流入者を撫恤し茅山書院を再興、行鄉飲酒禮を行った。
- 通判慶元府主管浙東塩事として、正数と称された附加分の塩税を撤廃させ、幹辦行在諸司糧料院を経て衢州の寇乱に赴任、保伍を立て土豪を用いて防御し、寇再発時にも七日で四十八人を捕らえた。水害への治水事業や災害救済、孔子裔孫のための家廟建立を進め、太常丞に遷るが讒言で罷免、大宗正丞、金部郎官として弊制を整理、将作監、淮東総領を辞し左司兼右司兼金部を経て丞相丁大全との不和で去国、知吉州も罷免、開慶元年(1259年)浙西提挙常平として大全の私人による塩本銭の横領を正した。
- 浙西提点刑獄兼知常州として忠衛軍を創設し流亡の淮兵を安置、呉大椿の冤罪事件を糾明し全て平反した。大理少卿直華文閣浙東提点刑獄兼知婺州として勢家の隠田を摘発、湖南転運副使を辞し浙西提点刑獄として八郡三十九県を巡察し婦人の殺人冤罪を密査で解決するなど神明と称された。循環総匣の制度で吏の弊を防いだが誹謗され罷免。江東提点刑獄を経て度宗即位後太常少卿兼右司、知臨安府を経て言事で罷免、知婺州で卒した。少くして劉漢弼に学び磊落英発、一善を聞けば手ずから記録する人柄であった。