宋史卷四百二十一 列傳第一百八十 李庭芝
字は祥甫。随の人で、義門李氏と号された家系に生まれる。淳祐初年に進士に及第し孟珙に見出され、京湖・両淮の防衛で活躍した。開慶年間以降揚州を拠点に李璮の乱を鎮圧し、元軍南侵に際しては襄陽陥落後も揚州に籠城、徳祐年間には宋朝滅亡後も投降を拒み抗戦を続けたが、泰州で捕らえられ処刑された。国難に殉じた忠臣として知られる。
出自と若年期
- 李庭芝、字は祥甫。先祖は汒の人で十二世同居し「義門李氏」と号した。金滅亡後、襄漢が兵禍に遭い隨に移住、武を以て顕れた家柄。庭芝の生誕時、屋棟に霊芝が生じたため「祥」を名とした。幼くして頴異、王旻が隨を治めるとき、庭芝十八歳にして「王公は貪欲で下を恤まず民の怨みが多い、隨は必ず乱れるだろう」と告げて一族を徳安に避難させ、まもなく王旻は果たしてその部曲に叛かれ、隨の民に多くの死者が出た。
孟珙のもとで
- 嘉熈末、江防が緊迫する中、鄉挙に及第するも赴かず、荆帥孟珙に自薦。孟珙は人相見に優れ、夢に「李尚書」と称する車騎を見て翌日庭芝を迎え「その名位は自分を超えるだろう」と評した。四川に警報が出ると建始県権知事として農兵一体の統治で称賛される。淳祐初、進士に及第し孟珙の幕府で機宜文字を主管。珙の死に際し賈似道への自代推薦の遺表を受け、珙の恩に感じて三年の喪に服した。
両淮での防衛(開慶年間まで)
- 賈似道が京湖を鎮する頃、制置司参議に起用され両淮に転じ、清河・五河口の柵、淮南烽火百二十の増設、濠州知事・荆山の修築を似道と協議、いずれも機宜に適った。開慶元年(1259年)似道が京湖を宣撫すると庭芝は揚州権知事、大兵蜀にありとして峡州知事にも任じられる。趙與□(KR0696)が淮南制置、李応庚が参議官となり、応庚が両路の兵で城を築いた際、大暑で数万人が死亡。李璮がこれに乗じ漣水三城・南城を奪う。庭芝は母の喪で去るが、朝廷が「李庭芝でなければ」として夺情で両淮制置司事を主管させ、璮軍を再破、璮将厲元帥を殺し南城を平定、翌年喬村で璮を破り東海・石圃等の城を破り、璮が降ると三城の民を通泰に移し、蘄県も破って守将を殺した。
- 揚州は着任時、大火の直後で財政が窮乏していたが、庭芝は民の借金を貸し与えて屋を建てさせ、後にその借金を免除、一年で官民の住居を整備。河四十里を開いて金沙餘慶塲まで通じさせ運河を浚渫、亭戸の塩負債二百余万を免除し塩利を興した。始平山堂の防備として元軍来襲時に望楼が築かれると、庭芝は大城を築いて包摂し、汴南の流民二万人を入れて実とし武鋭軍とした。学校を興し詩書・射礼を教え、水旱には廩を発し私財を用いて振済した。
襄陽戦から揚州死守まで
- 咸淳五年(1269年)北兵が襄陽を包囲、夏貴の援軍が虎尾州で大敗、范文虎が総諸兵で再度入るも文虎の軍が漢水で溺死者を出す大敗を喫した。庭芝が京湖制置大使として督師するが、文虎は密かに賈似道に「京閫(庭芝)の命に従わなければ功は恩相に帰す」と書き送り、似道は文虎を福州観察使として厚遇し中制した。文虎は美妾を伴い遊興に耽り、庭芝の再三の進兵要求にも「聖旨がまだ届かぬ」と応じなかった。翌年漢水が溢れてようやく出兵するが鹿門に至らず退却し、庭芝は自劾して代任を求めるも許されず、ついに襄陽は失陥した。陳宜中が文虎の誅殺を求めたが似道が庇い、庭芝と副将蘇劉義・范友信は広南に貶められた。
- 揚州に居留する中、元軍が再び揚州を包囲し制置使印応雷が急死すると庭芝が両淮制置に起用され、淮西は夏貴に任せて淮東に専念することを願い出て許された。咸淳十年(1274年)清河口を築き清河軍とし、元軍が鄂州を破ると天下に勤王を詔し、庭芝は諸道に先んじて兵を派遣した。徳祐元年(1275年)春、賈似道の軍が蕪湖で潰滅し沿江諸郡が降伏・逃亡する中、庭芝は揚州を守った。招降榜を持ち込んだ李虎を誅殺し、総制張俊の招降の書を焼き俊ら五人を市に梟首した。苗再成・許文徳・姜才施忠らに南北中を守らせ、督府の労いも受けた。参知政事に加えられ、知枢密院事として召されたが夏貴が代わりに就くはずが果たされず、そのまま留まった。
- 十月、伯顔が臨安に入城、阿术が揚州を長囲し、城中は冬に食糧が尽き死者が道に満ちた。翌年二月には濠水に飢餓者が身を投げ、道の死者を人々が争って食べるほどとなった。宋が滅び、謝太后・瀛国公からの降伏詔が届いても庭芝は「詔を守るように命じられたが降伏の詔は聞いていない」と拒み、両宮が入朝した後も届いた詔書に対して弩で使者を射殺し、姜才が両宮奪還を試みるも失敗。三月夏貴が淮西で降伏し、阿术が降兵を城下に示して威圧するが「私はただ一死あるのみ」と答え、来た使者は斬られ詔書は焼かれた。淮安・盱眙・泗州の守将が糧尽きて相次いで降る中、庭芝は民間の粟を集め、それも尽きると官人・将校に粟を出させ、牛皮や麴蘖を混ぜて兵に給し、子を煮て食う者も出るほどであった。それでも七月まで苦戦を続け、阿术が焚詔の罪を赦して降伏を求めたが従わなかった。
最期
- 益王が使者を送り少保左丞相として召したため、庭芝は朱煥に揚州を任せ、姜才と兵七千で東の海を目指すが、阿术の追撃で泰州が包囲され、朱煥が城を降す。庭芝の将士の妻子が城下に引かれ、守将孫貴・胡惟孝らが開門降伏。庭芝は事態を知り蓮池に身を投げるが水が浅く死ねず捕らえられ、揚州に送られた。朱煥は「揚州は用兵以来死骸が野に満ちたのはみな庭芝と姜才のせいだ、殺さずして何を待つのか」と言い、この日庭芝は処刑された。揚州の民は皆涙を流した。
- 泰州諮議官宋応龍は、泰守孫良臣の弟舜臣が降伏を説いた際、国家の恩義を説いて舜臣を殺させるよう請い、泰州降伏の後に夫婦で自ら首を吊って死んだ。提刑司諮議褚一正は高郵で督戦中傷を受け水に溺れ死に、興化県知事胡拱辰は城破れて死んだ。
史論
- 楊棟の学問は伊洛(程朱学)に根ざしたが権臣に阻まれ謗りを招いた、誰の過ちであろうか。姚希得は温厚な君子であった。包恢は厳格を旨として統治したが、衰世の民にはそれが必要だったのではないか。常挺・陳宗礼はともに事に通じ声望があった。常楙は晩年、皇子竑の継嗣論において光明正大で公義が明らかであった。家鉉翁は二君に仕えぬ義を貫き、臣たる者の模範たり得る。李庭芝は国難に殉じた、憐れむべきことである。