宋史卷四百二十一 列傳第一百八十 常楙

出自と地方官

  • 常楙、字は長孺。顯謨閣直学士常同の曾孫。太学に入り淳祐七年(1247年)進士。常熟尉となり公廉自持し部使者の推薦を受けた。婺州推官として滞訟を疏決し、臨安府尹馬光祖の推薦で平江府百万倉検察となり和糴を強要しない吏卒の弊を正した。発運使趙與□(底本欠字。KR0696の実体参照で字が判読不能。以下同人物への言及は同様に処理)提点刑獄のもとで無錫の翟氏の冤獄を雪ぎ、江淮茶塩所蕪湖局で商税の余剰を取らなかった。
  • 嘉定県知事として大水に見舞われると勧分和糴を行い、発運使王爚・提点刑獄孫子秀の推薦を受けた。簽書臨安府判官、淮東提挙常平(辟召を辞退)、城南廂主管では豪右を厳しく取り締まった。

中央での言論

  • 都城火災後、瓦礫が広がる中、民船差役の負担を勢家宦官が逃れていた不正を追及。戸部の科買を拒否した葉夢鼎・陳昉の期待を受けた。臨安通判、封椿庫吏范成の獄で無実の者を釈放、知広徳軍では水災に社倉粟を独断で放出し慈幼局を設立、先賢祠を立てた。
  • 監察御史として天変・賈似道の家の田争いを論じ、皇子竑の継嗣論で度宗の怒りを買った。司農卿、両浙転運使として海塩の鹹潮害を訴え、金を捐じ粟を発し、塩堤三千六百二十五丈を修築し「海晏塘」と名づけた。戸部侍郎、中書門下省検正諸房公事兼刑部侍郎として検覆の弊を極論し、雷雪非時の変を上奏したが帝の意に反した。
  • 集英殿修撰知平江のとき旱害救済に緡銭を用い蠲免を行い、浙東安撫使として水災救済にあたり、諸曁の被災に対応、両浙・会稽山陰の死者を普恵庫の利息で棺に納めた。刑部侍郎に召され法改正・冤獄救済に尽力し、給事中として隆国夫人の甥の恩賞録黄への詔命に従わなかった。徳祐元年(1275年)吏部尚書、老病を理由に辞退するも強く召された。
  • 首言で霅川の変を「本心にあらず」として濟王竑の立後を求める上疏。明堂礼成後、端明殿学士提領戸部財用となるが恩数を辞退、廟堂と意見が合わず病を理由に辞任。徳祐二年春、参知政事となるが夏士林の弾劾で罷免され、六年後に卒した。