経歴
- 陳宗礼、字は立之。少くして貧しく力学し、江東提点刑獄袁甫に学問を問うた。淳祐四年(1244年)進士。邵武軍判官、国子正、太学博士、国子監丞、祕書省著作佐郎を歴任し、入対して星変を修徳布政で応じるべきと説き、士大夫の利欲奔走を「至公」で止めるべきと述べた。考功郎官兼国史実録院校勘兼景献府教授、著作郎、尚左郎官兼右司を歴任。
- 丁大全が国柄を握り言論を憚らせた時代、「これで一日たりとも居られようか」と嘆いた。陛対で、宗社の大計・天下四海の心・忠良への腹心・正人への通達を願い、倉廩府庫の小計や左右便嬖の心、卑近な耳目、貪濁の類の引用に陥らぬよう戒めた。
- 太常少卿、直宝謨閣広東提点刑獄、直煥章閣、祕書監を歴任するが、監察御史虞侙の弾劾で永州に編管された。景定四年(1263年)侍御史直龍図閣淮西転運判官、刑部尚書(起居舎人曹孝慶の弾劾で罷免)を歴任。
- 度宗即位後、侍講、殿中侍御史として恭儉の徳・清白の規は上より始まるべしと上疏、権禮部侍郎兼給事中として孝宗聖訓を進読し、安危治乱は一念の間に起こると説いた。禮部侍郎、権禮部尚書、華文閣直学士知隆興府、広東経略安撫使兼知広州、端明殿学士簽書枢密院事兼権参知政事に至り、天命人心を敬い畏るべしと疏奏して卒官。遺表上奏、開府儀同三司盱江郡侯を贈られ、諡は文定。
- 著書に『寄懐斐藁』『曲轅散木集』『両朝奏議』『経筵講義』『経史明辨』『経史管見』『人物論』がある。