出自と経歴
- 包恢、字は宏父。建昌の人。父・揚、伯父・約、叔父・遜がともに朱熹・陸九淵に学び、恢も若くして諸父の門人に『大学』を講じ、その明晰さに諸父が驚いたという。嘉定十三年(1220年)進士。金谿主簿、邵武守王遂の招きで光沢主簿(賊乱を平定)、建寧守袁甫の推薦で府学教授、虎翼軍を監し土豪を募って賊を討伐、掌故、沿海制置司幹官を歴任。
地方官として
- 飢饉で金壇・溧陽間に盗賊が起こると、諸将を十に分けて誅夷。沿江制置使陳韡に機宜として招かれ賊平定の功。知吉州永豊県、福建安撫使陳塏の檄で賊平定に赴き、武学諭・宗正寺主簿・通判台州を歴任し、徐鹿卿の温州賊討伐に随行。
- 知台州では、妖僧が「活仏」と称して男女に信仰され豪貴も靡いた事件で僧を誅殺。左司郎官への異動前、湖北・福建提点刑獄となり、建寧では九月の五王生誕祭の淫祀を「彼らが同日に五子を生めるはずがない」と諭して衰退させた。
- 広東転運判官権経略使、侍右郎官、大理少卿、直顕文閣浙西提点刑獄として海賊平定にあたり、嘉興の吏が和糴で百万を収賄した事件を軽減減死の処置とした。
晩年
- 直龍図閣権発運、祕閣修撰知隆興府兼江西転運のとき、妖狐化けの噂を利用した殺人事件(僧との密通を諫めた子を陥れた母の陰謀)を巧みに看破した逸話、姑の死に際し假子婦の棺を巡る詐術を見抜いた逸話が伝わる。湖南転運使を経て罷免。
- 景定初、大理卿枢密都承旨兼侍講、権禮部侍郎、中書舎人(林希逸が包恢の清廉を評す)、権刑部侍郎、華文閣直学士知平江府兼発運(豪家が民田を奪い偽って上奏した件を糾弾、帝の感動で即座に返田)を歴任。
- 端明殿学士簽書枢密院事、封南城縣侯、郊祀礼成後、資政殿学士致仕。歴任先で豪猾を破り姦吏を除き、塩・銀の弊害を正した。輪対で「近習・外戚」による陛下の惻隠の心の蔽いを訴え、参知政事董槐が慚愧し、理宗も直言を怒らないと述べた。度宗は恢を程顥・程頤に比した。
- 父の病に自ら世話をした孝行、87歳で没す前に盧懐慎の質素な葬を範とし深衣で歛葬するよう遺言。没した地には光が現れたという。遺表上奏、帝は輟朝、贈少保・諡文肅、賻銀絹五百。