宋史卷四百二十一 列傳第一百八十 姚希得

潼川の人、字は逢原、一字は叔剛。嘉定十六年(1223年)進士。地方官として治績を挙げ、史嵩之の再登用に断固反対するなど直言で知られた。江防・沿海防衛にも功を挙げ参知政事に至り、咸淳五年(1269年)死去、少保を追贈された。

年表(2件)

出自と経歴

  • 姚希得、字は逢原、一字は叔剛。潼川の人。嘉定十六年(1223年)進士。小溪主簿に任じられ待次三年、六経諸子百家を討論した。蜀の兵乱時、軍需調度を滞らせず整えた。嘉定府司理参軍に転じ、蒲江県知事となり、豪族を抑え弱者を扶けた。
  • 同知枢密院事游似の推薦で審察を受け、行在都進奏院通判太平州、福州通判(徒歩で侯官に赴き吏に通判と気づかれなかった逸話)、国子監丞、大府寺丞、金部文字擬・沂靖王府教授を歴任。

上疏と地方官

  • 理宗が権姦を斥け名徳を召したとき、朝廷は喜んだが、希得は「外は清明に見えても内には危亡の兆しがある」として上疏。堯舜三代には危亡の言を憚らなかったが秦漢以来は危亡を諱むと論じ、建儲の遅延・邸第(皇族)の奢りや請託への放任・女冠や近侍の跋扈を指摘し、元祐紹聖のような党争の兆しを憂えた。帝は改容し「決して史嵩之を用いない」と答えた。
  • 知大宗正丞兼権金部郎官、李韶の病告に対する留任進言、財用困竭を訴えて仏事奢侈より民生充実を優先すべきと説き、救楮三策を献じて恵民局設置を進言、いずれも帝に採用された。祕書丞、著作郎、江西提挙常平(賄賂で免罪を求めた臨川富室を罪した)、提点刑獄、直祕閣、度支員外郎、直宝謨閣を歴任。
  • 贛州治への異動時、盗賊崔太尉(石璧に拠る)・劉老龍らを五十日足らずで平定。直宝謨閣広西転運判官兼権静江府、直徽猷閣知静江府主管広西経略安撫司公事兼転運判官を歴任。母の喪を終え、祕書少監兼中書門下省検正諸房公事として君子小人の弁を上奏。

晩年

  • 宗正少卿兼国史編修実録検討・権給事中・権刑部侍郎を歴任中、西方用兵で史嵩之再登用の動きがあると、希得は断固反対し、密奏して抗った。右正言邵沢・監察御史呉衍・殿中侍御史朱煕がこれに続いて弾劾した。
  • 集英殿修撰提点千秋鴻禧観、両淮宣撫使司判官、寶謨閣待制、京西湖南北四川で復官、江陵防衛の功で戸部侍郎に召される。帝は「姚希得は閫帥たり得る」として煥章閣待制知慶元府沿海制置使、敷文閣待制に進み、沿海舟師増強・水軍募集・戦艦建造・食糧貯蔵・租税減免を行った。
  • 工部尚書兼侍読、華文閣直学士沿江制置使知建康府江東安撫使行宮留守として、江上を慰労し寧江軍を創設(建康~池州に砦・屯戍七千余人)。刑部尚書、兵部尚書兼侍読を歴任し、用人・修政・治兵・惜財の四事を献じ、端明殿学士簽書枢密院事兼太子賔客に至った。星変により引咎して辞職を願い出るも兼権参知政事。度宗即位後、同知枢密院事兼権参知政事、参知政事、資政殿学士提挙洞霄宮を経て潭州知事湖南安撫使とされたが病のため辞し、資政殿大学士金紫光禄大夫潼川郡公として致仕。
  • 咸淳五年(1269年)卒。遺表が上奏され帝は輟朝、少保を追贈された。
  • 忠亮平実清倹で、善類を推薦しても虚誉を求めなかった。広西の官署の帟幕を錦から繒纈に替えた逸話、蜀の親族数十家を終生扶養した逸話、晩年は口数に応じ田を分与した。著書に『続言行録』『奏藁』『橘洲文集』。