宋史卷四百二十一 列傳第一百八十 楊棟

眉州青城の人、字は元極。紹定二年(1229年)進士(第二人)。地方官・言官を歴任し正論を重んじた学者官僚で、程朱学を宗とした。度宗朝で参知政事に至ったが、賈似道との間に確執が生じ、資政殿大学士充万寿観使として死去、少保を追贈された。

年表(1件)
  • 紹定二年1229年進士に及第(第二人)し剣南西川節度判官庁公事に任じられる

出自と経歴

  • 楊棟、字は元極。眉州青城の人。紹定二年(1229年)に進士に及第(第二人)し、剣南西川節度判官庁公事に任じられたが、赴任前に母の喪に服し、除服後は荆南制置司に転任、辞して西川に招かれ、入朝して太学正となる。父の喪にも服した。
  • 召試を経て祕書省正字兼呉益王府教授、校書郎、枢密院編修官を歴任。

言論と地方官

  • 入対し、飛蝗が天を覆う中で陛下に終始一徳を保ち天心を感格させるよう願い出た。また中外の臣の言は実を伴わないことが多いとし、至誠をもって天下に臨むよう説いた。祖宗が国を立てたのは兵財の力によらず民心にあるとし、峻急な人物の登用を戒めた。理宗はこれを喜んだ。
  • 興化軍知事として奉祠される。孔子の後裔で涵頭鎮に住む者のために廟を建て田を開き子弟を教えた。福建提点刑獄、直祕閣兼権知福州・福建安撫使、都官郎官、左司郎官・右司郎官兼玉牒所検討官、宗正少卿を歴任。
  • 進対で理宗に「正心修身の説のみ」と答えた。女道士(女冠)が宮禁に出入りし請託を通していることを、外廷の批判にもかかわらず帝は取り合わなかったため、上疏して「陛下は何ゆえこの一女冠を惜しむのか、天下が目を側める者を速やかに除くべきだ」と諫めた。京襄両淮四川の残破した郡県で武将出身の吏が科挙によらず民を虐げていることも訴え、帝はこれに従った。

度宗朝から晩年

  • 太常少卿・起居郎、知滁州(殿中侍御史周坦の弾劾で罷免)、直龍図閣知建寧府(拝せず)、提挙千秋鴻禧観、起居郎兼権侍左侍郎崇政殿説書、吏部侍郎兼同修国史実録院同修撰兼侍読、集英殿修撰兼中書舎人兼侍講、知太平州(右補闕蕭泰来の弾劾で罷免)、知婺州を歴任。
  • 度宗が即位すると太子詹事に抜擢され、工部侍郎、礼部尚書、端明殿学士同簽書枢密院事、太子賔客、同知枢密院事兼権参知政事、参知政事を歴任。台州守王華甫が上蔡書院の山主として彼を招き、台州に居を構えた。資政殿学士知建寧府(拝せず)、慶元府沿海制置使を歴任し、観文殿大学士に加えられたがこれも拝さなかった。
  • 資政殿大学士充万寿観使として卒し、遺表が上奏され帝は輟朝、少保を追贈された。
  • 学問は周敦頤・程氏に基づき海内に重きをなした。賈似道が入相した際、故老の一人として登用された。彗星が出現した時「これは蚩尤旗であって彗星ではない」と発言し世に軽んじられた。ある者は「棟が賈似道を排斥しようと帝に密告した」との噂を立て、似道はこれを察知し疑って棟を退けた。
  • 著書に『崇道集』『平舟文集』がある。