沈炎(字若晦)
- 嘉興の人。宝慶二年(1226年)進士、嵊県主簿・広西経略司准備差遣・湖南安撫司幹弁公事に調任、郴の賊を討ち功があり金華県知事に改め、沿江制置司幹官・通判知州・沿江制置主管機宜文字、監三省枢密院門・枢密院編修官、監察御史・右正言・左司諫・殿中侍御史・侍御史を歴任、景定元年(1260年)右諫議大夫を拝命、端明殿学士・同簽書枢密院事兼太子賓客を加え、二年同知枢密院事兼権参知政事を拝命、資政殿学士・洞霄宮提挙、三年大学士に進み致仕、死去、少保を贈られた。炎は言路にあり福建転運使高斯得・観文殿学士李曾伯・沿江制置司参謀官劉子澄・左丞相呉潜を弾劾したがこれは公論とは言えず、右丞相丁大全とその党与を弾劾したことのみが公論であったとされる。
史論
- 王伯大は朝廷にあって直諒であった。鄭寀・沈炎は言路にあって君子小人を弁別せず皆弾劾したが、これはどのような考えによるものかわからない。應㒡は清慎で世を終え、徐清叟は風采が班行の間に凛然としていた。李曾伯の辺境統治は才に短所があった。王埜は名父の教えを受けその学問はますます光を放った。蔡抗は君子と称されるが史書はその事跡を欠いている。張磻・馬天驥・饒虎臣にはまだ卓然として称すべきものが見当たらない。戴慶炣・皮龍榮は登第から間もなく執政の位に至った。龍榮は権臣に付かず擯斥されて死んだのはなお取るべきところがある、慶炣には称すべき事跡がない。朱熠は台察にあってまるで狂った猘犬のように人に遇うたびに噛みついたという。