皮龍榮(字起霖、一字季逺)
- 潭州醴陵の人。淳祐四年(1244年)進士、吏部架閣文字主管を歴任、宗学諭に転じ諸王宮大小学教授兼資善堂直講を授かり、入対し過ちを改める実をもって運化(徳化)の名に易えるべきと請い、一過を改めれば一善が著れ百過を改めれば百善が融け合うと述べた。秘書郎に転じ著作郎に昇進、入対し真徳秀・崔与之の廉潔さに及び、龍榮は「今天下に廉なる者がいないわけではない、陛下がこれを崇め奨めれば、賞罰の公をもって天下を励ますべきだ」と述べ、帝はこれを是とした。兵部郎官を兼ね嘉興府知事に差し、召され赴闕し侍右郎官に転じ資善堂賛読を兼ね、また吏部員外郎に転じ直講を兼ね、入対し忠王(度宗)の学問は陛下が内でこれを教えるべきと述べ、帝は嘉納した。
- 将作監に転じ尚右郎官を兼ね、秘書少監兼吏部郎中、宗正少卿・起居郎兼権侍左侍郎兼給事中、吏部侍郎兼賛読、醴陵県男に封ぜられ、集賢殿修撰に転じ太平興国宮提挙、召見され刑部侍郎に進み宝章閣待制を加え荊湖南路転運使、権刑部尚書兼翊善、景定元年(1260年)四月端明殿学士・簽書枢密院を拝命し伯に進封、権参知政事、二年参知政事を拝命しなお太子賓客を兼ね、夀沙郡公に封ぜられ、三年湖南安撫使判潭州に降ろされ、四年資政殿大学士・洞霄宮提挙、右正言曹孝慶の弾劾で罷免、咸淳元年(1265年)旧職奉祠、殿中侍御史陳宗礼・監察御史林拾が相次いで弾劾し一官削られる。
- ある日帝が偶然龍榮の所在を問うと、賈似道は召用されることを恐れ密かに湖南提点刑獄李雷応に弾劾させ、雷応が官に着任すると龍榮に謁見し、龍榮は故を託して出ず、退くと斥り罵り、ある人がこれを雷応に語り雷応は不満を抱き「私が至尊を膝の上に擁している」という言葉をよく人に語っていると疏じ、詔により衡州への転住が命じられ、湖南提刑が衡州を治めており龍榮は雷応に容れられないことを恐れたが、至る前に死去。龍榮は若くして志略があり春秋を精究し文集三十巻がある。性は忼直で似道が権を執っても志を屈せず、また度宗の旧学であったため終に似道に擯斥された。徳祐元年(1275年)官を復し致仕、二年太府卿柳岳が贈諡を加えるよう請ったが果たされないうちに宋は亡んだ。