徐榮叟(字茂翁)
- 煥章閣学士許応龍の子。嘉定七年(1214年)進士に挙げられ、臨安府通判を歴任、太学博士兼崇政殿説書に転じ秘書郎に転じ著作佐郎兼侍左郎官に昇る。江東提点刑獄に出され直秘閣・婺州知事、著作郎兼礼部郎官に転じ、集英殿修撰として静江府知事兼広西経略安撫使、行在司諫として召され再び説書を兼ね侍講を兼ね、嘉熙四年(1240年)右諫議大夫を拝命し入対し、楮幣が通じなくなって以来物価が倍増し民が怨み、米運が多く阻まれ食糧が困難で民がさらに怨んでいるのが京師の実情であり、外郡でも苛征横斂・厳刑峻罰が横行、和糴(強制買上げ)では価格を抑えて利益を得ようとし、軍需では利権に絡んで利益を貪り、逃亡した者に強制的に代納させ蠲放(免除)を渋り重ねて催促し、私販者を摘発すれば多寡を問わず黥刑徒刑に処し、官課を怠った者は動もすれば投獄され、このような有様では民が怨まないはずがないと論じ、さらに富家巨室・貴族豪宗が民庶を侵し害し、冤を抱く者が訴えられず抑圧された怨気が薫蒸することが陽亢(異常気象)の原因になっていると論じた。
- 権礼部尚書兼権吏部尚書に転じ、端明殿学士・簽書枢密院事を拝命、淳祐二年(1242年)田里への帰還を願い、資政殿大学士・洞霄宮提挙、六年一官転任の上致仕、死去。