宋史卷四百十九 列傳第一百七十八 曽從龍

曽從龍(字君錫)

  • 左僕射曽公亮の四世の孫、初名一龍。慶元五年(1199年)進士第一に挙げられ今の名を賜る。簽書奉国軍節度判官庁公事を授かり、兵部員外郎・左司郎中・起居舎人兼太子右諭徳に進み、金への使者を務め還ると転官、州郡が数月守を欠き次官が権攝する弊、守が久しく安まらず民が渇望しても他の理由で罷免される弊、守の交代のたびに供張・借請に一万緡近い出費がかかる弊を挙げ、郡守の欠員があれば速やかに任じ、求避する者は速やかに退けるべきと請うた。開禧年間(1205-1207年)外任を求め信州知事、戍卒が境内で掠奪を行うと従龍は法に処し、婦人の衣を得て市に梟した。
  • 権禮部侍郎兼中書舎人兼太子左諭徳に召され、張鎡が姪女を蘇師旦の子に嫁がせ賄賂を結んだことを理由に鎡の復官の詞頭を繳還した。太子諭徳兼同修国史実録院同修撰兼国子祭酒を兼ね吏部侍郎に転じなお兼職、太子右庶子兼給事中兼直学士院・権刑部尚書、嘉定六年(1213年)秋の陰雨に際し繋囚を釈放するよう乞い、入対し徳政を修め人材を蓄え辺備を整えるべきと論じ帝はこれを善しとした。
  • 七年(1214年)貢挙を知り、科目は国家が天下の英俊を網羅する所以であり、義は経に通じるかを観、賦は博古を観、論は識見を観、策は才を観るものだが、近年学は根柢を務めず辞は体要を尚ばず、渉猟が精密でなく議論も疎陋で、この弊を正すべきと上奏、詔はこれに従った。端明殿学士・簽書枢密院太子賓客に進み参知政事に改め、胡榘の姦悪と正論の妨害を疾み四罪を陳べたが、榘の嗾しにより言者に弾劾され前職洞霄宮提挙、建寧府知事に起用され内艱に服し服除後湖南安撫使、峒獠を撫安し威と恩恵を並び行い興学養士、湘人はこれを石に刻んで記した。隆興府知事に改め洞霄宮提挙・万寿観提挙兼侍読に転じる。
  • 端平元年(1234年)資政殿大学士・沿江制置使兼知建康府兼行宮留守を授かり、参知政事兼同知枢密院事を拝命、三京の役に際し南兵の軽進易退を極論、まもなくその言の的中が明らかとなった。知枢密院事兼参知政事に進み、枢密院使として督視江淮荊襄軍馬、辺面が遼遠で声援が接続しないため二閫を並建すべきと疏言、詔はこれを許した。江淮を専ら任され、荊襄を魏了翁に属させ、朝論が辺用の不足を憂うと詔により従龍と了翁がともに督府を領した。従龍卒後少師を贈られ、弟の用虎・天麟・治鳳はみな顕職に至った。