宋史卷四百十九 列傳第一百七十八 鄭性之

鄭性之(字信之、初名自誠)

  • 福州の人。嘉定四年(1211年)進士第一、贛州知事、隆興府知事に改め、のち宝章閣待制・玉隆万寿宮提挙、華文閣待制・上清太平宮提挙、敷文閣待制・建寧府知事に進む。端平元年(1234年)召され吏部侍郎、入対し陛下が大いに言路を開き壅蔽を通じさせようとしても心に君を愛する者でなければ言えず、言が切直でなければ人を感動させられない、水を積めば久しく壅がれて一度決壊すればその勢いは必ず盛んでその声も必ず激しくなる、言者が多ければ厭かれやすく言が激しければ受け入れにくい、少しでも厭倦を示せば讒諂が隙に乗じてしまうと論じた。また百官に旧汚を洗い清白を師とすべきと詔すべきこと、君たる者は堯舜を自ら期さねば善治はなく、君に告げる者は堯舜の道を陳べなければ遠猷はないと説いた。
  • 左諫議大夫に抜擢され、台諫が交章して互いに指弾する様を、古今天下安危の変・君子小人消長の機を公平に処すべきとし、言が国体に関わり治道を補い主徳に益するならば言葉が過激でも何の問題もない、虚心に善を納れれば江河を決するように激しい言葉も自然と平静になると論じた。端明殿学士・簽書枢密院事を拝命、同知枢密院事に進み権参知政事を兼ね、のち参知政事を拝命兼同知枢密院事、のち知枢密院事兼参知政事、観文殿学士を加え致仕、宝祐二年(1254年)死去。