宋史卷四百十九 列傳第一百七十八 陳貴誼

福州福清の人、字は正甫。慶元五年(1199年)進士。楮幣法の改正を批判する諫言などでしばしば史彌遠の不興を買いながらも、理宗即位後に累進し紹定六年(1233年)参知政事に至った。汴洛への出師に際しては病を押して抗論するなど、終始直言を貫いた官僚である。

年表(3件)

楮幣法批判と諫言

  • 福州福清の人。慶元五年(1199年)進士、瑞州観察推官を授かり、内外の喪に服し服除後安逺軍節度掌書記に転任、四川制置司書写機宜文字に差し、博学宏詞科に及第し江南東路安撫司機宜文字を授かり、太社令に転じ武学諭・国子録に改め、太学博士に転じる。
  • 楮幣法の改正が議論された際、貴誼は輪対で人主が令行禁止するのは民の好悪と同じくするからだと述べ、楮劵の令は姦悪を助長し道路に怨咨を生じさせ天命を祈り人心を固める所以ではないと論じ、熙寧新法を援用して論拠とした。また明鋭果敢の才は事を集めるに足りるが軽率に流れやすく、老成寛博の士は俗を厚くするに足りるが循理に失すると論じ、「衆をもって挙げ公をもって取る」に若くはないと述べた。これが新法を批判する言と見なされ時の宰相の怒りを買い、「貴誼は類を引き党を植える」と危険視された。
  • 太常博士に転じ、兄貴謙が礼部郎官を兼ねていたため嫌を避けて将作監丞兼魏恵憲王府小学教授に転じ、輪対で言路が開かれているとはいえ忌諱に触れる者は好名と目され時政を切磋する者は令を弄ぶと目され、利害は天下に関わり是非は人心に公けなものであるのに、一人が言えば取るに足らないとされ十数人が言えば朋党とされる、是非が転倒し忠佞が分からなくなっていると論じ、史彌遠はますます不快とした。秘書郎に転じ江陰軍知事に出され江西常平提挙、召されて朝廷に赴くも至る前に礼部郎官を授かった。
  • 金人が淮蜀を大いに擾していた頃、貴誼は人材こそ立国の基であるのに今は旁蹊曲径(不正な出世コース)が四方に開かれ、言路は通じているはずが今は媕阿循黙(阿諛して沈黙する)・囊括不言(意見を包み隠す)が横行し、民力は既に尽きているのに科斂(税の追加徴収)の外に賄賂を求めて出世を図る者が絶えず、軍中は敗北を語ることを恥じて陣没者を恤まず、潰走を語ることを恥じて逃亡者を再び招くと批判、婉順巽従(従順にへつらう)は災いであって愛ではなく、これを退けるべきだが、矯拂救正(逆らって正す)は薬石であって愛であり、これを用い聴くべきだと論じた。彌遠はますます不快とし、言者に論じさせ罷免、崇禧観主管に落ち着き、徽州知事に起用され召され司封郎官兼翰林権直兼玉牒所検討を授かる。

拝相前後の献策

  • 明堂の祭祀の際、包拯が皇祐年間に大赦の機に聚斂掊克(過酷な収奪)の弊を除くべきと請うたことを引き、州県の府庫の余剰の由来を調べるべき、周の邦饗の礼に倣い王事に死んだ者の子に及ぶべき、漢の羽林孤児の制に倣い従軍で死んだ者の子孫を選び五兵を教えるべきと述べた。理宗即位後宗正少卿兼侍講を授かり、寶慶初年、賢能才識の士を挙げる詔が下ると、貴誼は「世は容黙滞固(何もせずただ黙って固まる)を賢とし、苛刻生事(厳しく事を起こす)を能とし、褊狭趣辦(狭量にすぐ処理する)を才とし、軽疏嘗試(軽率に試みる)を識とすることがあるが、今こそ忠実正直・奉公愛民・礼義廉恥を知り防範を越えない者を選ぶべきだ」と論じた。また成王の初期には元臣故老が無逸(怠惰を戒める)をもって克夀(長寿)を望み、敬徳をもって永命を望み、豈弟(和楽で親しみやすい)をもって受命の長きを望んだと述べ、君を愛する切実さと患いを慮る深さを説いた。
  • 中書舎人に転じ兼直学士院を加え、内侍の濫れた恩賞をしばしば封還し、郊祀に際し民生の艱難・吏員の過多・征斂による公費の私蔵化を指摘し賞罰を明らかにすべきと説いた。礼部侍郎兼中書舎人に転じ権刑部尚書、修玉牒官兼侍読を兼ね、礼部尚書兼給事中・端明殿学士・簽書枢密院事、紹定六年(1233年)冬帝が親政を始めると参知政事に進み、帝は「かつて聞いた憂国の言を私は忘れていない」と面諭した。同知枢密院事を兼ね、汴洛への出師の際貴誼は既に病に伏していたがなお上疏し力争、五度上章して帰郷を願い、四官を加え邑封を致仕、死去、少保・資政殿大学士を贈られた。