宋史卷四百十六 列傳第一百七十五 余玠

余玠は字を義夫、蘄州の人。若くして落魄無行であったが、淮東制置使趙葵に認められ台頭した。淳祐年間、四川安撫制置使として16年間混乱していた蜀の統治を立て直し、冉氏兄弟の献策による釣魚山などの築城で山城防衛網を築いて蜀を富ませた。丞相謝方叔の讒言で孤立し、宝祐元年に急死した。

年表(4件)

若年の逸話と蜀への道

  • 余玠は字を義夫、蘄州の人。家貧しく落魄無行、功名を好み大言を吐いた。若年に茶肆で客と揉め茶屋の翁を殴殺し身を潜め襄淮に逃れた。淮東制置使趙葵に長短句を献じて壮士と認められ幕下に入り、功により進義副尉に補せられ、将作監主簿、制置司参議官を歴任。嘉熙3年(1239年)汴城・河陰での戦功で直華文閣淮東提点刑獄兼淮安州知事、淮東制置司参謀官となった。

四川安撫制置使としての改革

  • 淳祐元年(1241年)安豊救援の功で大理少卿、制置副使に昇進。文武の士を等しく重んじるべきと説き、理宗に「独り一面を任せられる」と評された。権兵部侍郎四川宣諭使を経て兵部侍郎四川安撫制置使兼重慶府知事兼四川総領兼夔路転運使を拝した。宝慶3年(1227年)から淳祐2年(1242年)まで16年間に宣撫3人・制置使9人・副使4人が交代し統治が破綻していた蜀に、余玠の着任で人心が安定し始めた。

蜀の再建と冉氏兄弟の登用

  • 招賢館を府の左に築き、諸葛孔明の故事に倣って人材を広く募った。播州の隠士冉璡・冉璞兄弟を礼遇し、当初無言を貫かれたが、時間をかけて信頼を得て「西蜀の計は合州城を釣魚山に移すことにある」との献策を引き出した。玠は大いに喜び、璡を承事郎権発遣合州、璞を承務郎権通判州事に任じ、青居・大獲・釣魚・雲頂・天生など十余城を山を頼りに築いて防衛網とし、潰将を誅して軍令を粛正、金戎を大獲、沔戎を青居、興戎を合州旧城、守戎を釣魚、利戎を雲頂に移して連携させた。俞興に成都で屯田を開かせ蜀は富み栄えた。

王夔の誅殺

  • 利司都統王夔(号「王夜叉」)は驕慢残虐で、様々な酷刑で富家を脅し金帛を奪っていた。朝廷も遠隔のため取り締まれずにいたが、玠は嘉定に赴き、王夔の兵の弱さを見て粛正を決意、親将楊成の助言もあり「呉氏(蜀を守った呉玠・呉璘一族)に功がありながらも一旦逆心を抱けば孤豚のように誅されたように、王夔にはその功すらない」との判断で夜に王夔を召し密かに楊成に代え、王夔を斬った。その党与も次第に法により処断した。

失脚と死

  • 姚世安が統制の座を巡り、王夔誅殺の轍を恐れて丞相謝方叔の家子姪を頼り、方叔は玠が民心を失ったと讒言、玠と姚世安が対立する事態となった。玠は鬱々として楽しまず、宝祐元年(1253年)召命を聞いて不安のうちに急死し(服毒との説もある)、蜀の人々は父母を失ったように悲しんだ。蜀入り後、華文閣待制・金帯、権兵部尚書・徽猷閣学士・大使・龍図閣学士・端明殿学士を経て資政殿学士に至り、卒後帝は朝を輟め五官を追贈したが、監察御史陳大方の弾劾で一時職を奪われ、6年後に復された。都統張実の軍事、王惟忠の財政、朱文炳の賓客応対など制度を整え、学問振興・軽徭薄賦により蜀は富み、京湖への糧饟供給も止め東南の防備も撤収できた。ただ蜀錦・蜀箋の贈答が過度に華美で、久しく便宜の権を握って嫌疑を避けなかったこと、機捕官を置いて情報収集した反面、群小に耳目を託して人々の疑懼を招いたことが弱点であった。子の余如孫(孫仲謀に因む命名)は師忠と改名し大理寺丞となったが、賈似道に殺された。