宋史卷四百十六 列傳第一百七十五 呉淵
呉淵は字を道父、呉柔勝の第三子。嘉定7年(1214年)進士に及第した。財政・治安の実務官として各地で辣腕を振るい、流民救済や城砦整備など地方統治に功績を挙げたが、政は厳酷に流れ「蜈蚣の謡」があったと評された。宝祐5年、参知政事を拝したがわずか7日で卒した。
若年と地方官
- 呉淵は字を道父、秘閣修撰呉柔勝の第三子。端重寡黙で、5歳で母を喪い成人のように哀慕した。嘉定7年(1214年)進士に及第、建徳県主簿となった際、丞相史彌遠に才を認められたが、家に厳父がいるとして官途を焦らなかった。江東九郡の冤訟処理を任され、浙東制置使司幹辦公事に転じたが、父の喪に服し起復の命を固辞し「喪を送ることをおろそかにして栄達を求めれば大節を失う」と述べた。
財政・治安の実務官
- 浙東提挙茶塩司幹辦公事、鎮江府節制司・沿江制置使司幹辦公事はいずれも赴任せず、武陵県・楊子県知事、淮東転運司幹辦公事、真州通判添差を経て将作監丞、樞密院編修官兼刑部郎官、秘書丞を歴任。平江府知事兼許浦水軍節制・浙西刑獄提点として衢州・厳州の盗賊を討伐、樞密院検詳諸房文字兼国史院編修官実録院検討官兼左司、右文殿修撰、樞密副都承旨を歴任した。中原出兵論(関を拠り黄河を守る策)に強く反対し、「国力では取ることも守ることもできない」と主張、丞相鄭清之の不興を買い出された。
地方統治の実績
- 江州知事、江淮荊浙福建広南都大提点坑冶都司を歴任し、御史の弾劾を受けたが侍御史洪咨夔がこれを退けた。予言通り辺事が悪化すると清之は引責の書を送った。鎮江府知事として防江軍の乱を平定、淮東総領を兼ね、太府少卿、権工部・兵部・戸部侍郎を歴任。太平州知事のとき、両淮の流民40余万が境内に流入した際、什伍に組織して土着民との衝突を防ぎ、周辺郡が焼劫の被害を受ける中、太平のみ静穏を保った。慶元府・江州・隆興府(江西安撫使兼転運副使)・潭州・鎮江府の知事を歴任し、隆興府では大飢饉に際し78万9千余人を救済、鎮江府では65万8千余人を救済した。
晩年の軍功
- 沿江制置副使兼南康軍兵甲公事節制蘄・黄州・安慶府屯田使として湖南峒寇の乱を平定。兵部尚書兼知平江府として大飢饉で42万3千500余人を救済。江東安撫使兼建康府知事として、光・豊・蘄・黄地区に司空山・燕家山・金剛台など三大砦、嵯峨山・鷹山・什子山など22の小砦を築き屯田を整備した。資政殿大学士、金陵侯に封じられ、荊湖制置大使・江陵府知事・京湖安撫制置大使を経て観文殿学士に至り、蜀を援けるため白河・沮河・玉泉で力戦した。宝祐5年(1257年)参知政事を拝したがわずか7日で卒し、少師を追贈された。呉淵は才略に優れ事功を成し遂げたが、政は厳酷に流れ羅織の獄を好んだため「蜈蚣の謡」があったという。弟の潜が度々諌めた。著書に『易解』『退庵文集』奏議がある。