宋史卷四百十五 列傳第一百七十四 王遂

若年と地方官

  • 王遂は字を去非、一字頴叔、樞密副使韶の玄孫。鎮江府金壇の人。嘉泰2年(1202年)進士に及第、富陽主簿、幹辦諸司審計司を歴任。紹定3年(1230年)福建の乱平定後、邵武軍知事兼福建招捕司参議官として避難民を撫恤したが、標榜を求める風評で罷免され、安豊軍知事に転じた。国子監主簿、太常寺主簿を経て監察御史として君子登用・小人退去・風俗是正を論じ、史嵩之の「小黠を大智とみる」政策の危険を痛烈に批判した。

言官としての活動

  • 右正言、殿中侍御史として、李知孝・梁成大・莫沢の三凶を厳罰に処すべきと訴え、劉光祖の奏格を頒布させ、辺境の屯田や辺事六策(帰附の民の撫恤・間諜の精選・財用の節約・土兵の訓練・将才の登用・軍実の計画)を上言した。戸部侍郎兼同修国史実録院同修撰を経て、遂寧府・成都府(四川安撫制置副使)・平江府・慶元府・太平府・泉州・温州寧国府・建寧府・隆興府(江西転運副使兼)・太平州の知事を歴任し、権工部尚書に至った。

人物評

  • 同郷の劉宰は王遂の文を「雅健にして世俗の浮靡なし」と評し、平江府知事となる際に「士友は親しむべきだが賢否は弁別すべし、財利は遠ざけるが会計は明らかにすべし、獄を断ずるに私意に牽かれず、士を薦めるに権要に奪われず、言うべきときは時流に流されず退かず、去るべきときは利害を計らず速やかに去るべし」と格言を贈った。

史論

傅伯成は晩年、楊簡とともに時の亀鑑となった。葛洪は正を守って阿らず、曾三復は淡然として競うことがなかった。黄疇若は政治に長け、袁韶は李全討伐を強く求めた点で丞相史彌遠の腹心であったことが窺える。危稹は徐僑への書簡問題で罪を得たが、その人柄は明らかで、治州の政には循吏の風があった。羅必元は危稹に学んだ者である。程公許・王遂の直言はしばしば見られ、まことに偉というべきである。

宋史卷四百十五