宋史卷四百十六 列傳第一百七十五 汪立信

汪立信は汪澈の従孫。淳祐6年(1246年)進士に及第した。馬光祖・賈似道と対立しつつも辺防の要を説き続け、賈似道への諫言(上中下三策)は容れられず廃斥された。咸淳10年、大元軍南下に際し出師し、建康陥落を受けて自ら喉を突いて殉節した。

年表(4件)

若年と地方官

  • 汪立信は汪澈の従孫。曽祖父智が澈に従って湖北を宣諭した縁で六安に居住した。淳祐元年(1241年)安慶の劇賊胡興・劉文亮を招安する策を献じ、承信郎に補せられ、6年(1246年)進士に及第。理宗にその雄偉な容貌から「これは閫帥の才」と評され、烏江主簿を授かった。沿江制幕、桐城県知事、荊湖制司幹辦、建康府通判を歴任し、荊湖制置趙葵の策応使司参議官となった。

馬光祖との対立

  • 葵の後任として馬光祖が代わり、鄂州の囲みが解けた後、賈似道が閫外の臣と功を争おうと「打算法」で軍興時の支出を罪に問おうとした。光祖はこれに迎合しようとしたが、立信は「趙公が艱難の時に尽力したのに、非理でこれを咎めるのは不当」と強く争い、光祖の怒りを買い、投劾(辞表)して去った。京西提挙常平、昭信軍知事、権淮東提刑を歴任、景定元年(1260年)池州知事提挙江東常平、権知常州浙西提点刑獄、江州知事沿江制置副使として蘄・黄・興国軍を節制、江西安撫使、鎮江府知事、湖南安撫使兼潭州知事を歴任し、潭州では公費を官庫に置き荒政・軍民救済に努めた。

辺防三策と賈似道への諫言

  • 権兵部尚書荊湖安撫制置知江陵府として、襄陽が包囲された危急時に安陸府の増兵と辺戍の維持、黄州守将陳奕の異心への警戒を上疏。賈似道への書簡で「天下の勢は十のうち八九を失い、君臣は安逸に耽っている」と痛烈に批判し、上策として全軍70余万から老弱を淘汰した50余万を沿江に配備し、屯・府の体制と親王による統制を提案。中策として敵使を礼遇し帰し歳幣を許して数年の猶予を得る策、下策として天が我を滅ぼす場合は「銜璧輿櫬」(降伏の礼)を備えるべしと述べた。似道は激怒し書を地に投げつけ「瞎賊(片目の賊)狂言」と罵り、危法をもって立信を廃斥した。

末期の忠節

  • 咸淳10年(1274年)大元軍の南下に際し似道が出師する際、立信は端明殿学士沿江制置使江淮招討使として召され、召命を受けるとすぐ出発、妻子を友人金明に託し「国家に負かず、私にも負くな」と語った。似道に蕪湖で会うと、似道は背を撫でて「公の言を用いず今日に至った」と泣き、立信は「江南に清浄の地なし、我は趙家の地で死を求めるのみ」と答えた。建康の守兵が潰走し四面を北軍に囲まれる中、「生きて宋臣、死して宋鬼となる」と述べ、数千人を率いて高郵に至ったが似道の軍が蕪湖で潰走し江漢の守臣が次々降伏したと知ると、「宋の土で死ねる」と酒を召して賓客と訣別、三宮への遺表と甥への家事の書を残し、夜中に庭を歩き慷慨悲歌して3日号泣した末に自ら喉を突いて卒した。光禄大夫を以て致仕、大傅を追贈された。大元丞相伯顔は立信の二策とその死を聞き「宋にこの人ありしか、我を用いれば斯くまでにはならなかったろう」と嘆じ、その家族を厚く恤ませた。子の麟は建康で書役をしていたが降らず、閩に逃れて死んだ。

若年の逸話

  • まだ仕官前、家が貧しかったとき飢饉に際し呉淵が鎮江で粥を配給させ、その客黄応炎に立信を評させたところ「非凡の人」と見抜かれ、淵は上客として礼遇したが、これに応炎自身は不満を持った。淵は応炎に「この人は君と地位を同じくする者ではない」と諭したという。この年、江東転運司試に及第し、後年淵と同じような官歴を歩みながら、最後は国難に殉じた。世は淵の人物眼を称えた。