宋史卷四百十六 列傳第一百七十五 向士璧

若年と地方官

  • 向士璧は字を君玉、常州の人。才気があり自負が強かった。紹定5年(1232年)進士に及第、平江府通判、淮西制置司参議官、高郵軍知事、安慶府知事・黄州知事、淮西提点刑獄兼黄州知事を歴任し、直宝章閣として鴻禧祠を奉じた。京湖制置参議官、湖北安撫副使兼峡州知事・帰峡施黔南平軍紹慶府鎮撫使、太府少卿、大理卿を経て、直龍図閣として合州の急を救援した際、馬光祖の命に応じ数々の奇功を立てた。

軍功と賈似道による排斥

  • 理宗は臣下に「士璧は朝命を待たず帰州へ進軍し、家財百万を捐てて軍費に充てた、その志は嘉すべし」と語った。祕閣修撰樞密副都承旨を経て、開慶元年(1259年)涪州が危急となった際、援軍を率い北軍の浮橋を計を用いて断ち大捷を報じた。宣撫使賈似道の指揮下に組み込まれることを拒み、独自に功を立てたため賈似道の疑念を買った。湖南安撫副使兼潭州知事、湖南制置副使に昇進し、大元将元良哈台が交阯から北帰する際に潭州が攻囲されたが、士璧は極力守禦し、王輔佑を斥候に派遣し南岳市での一戦で敵を破り、囲みを解いた。

失脚と名誉回復

  • 兵部侍郎に進み金帯を賜ったが、似道が入相すると功に賞せず、逆に監察御史陳寅・侍御史孫附鳳に弾劾させ漳州に流し、守城時の金穀の使用を追及して財産を没収した。この不正な追及に従った幕属方元善は後に狂疾に陥り「士璧」と叫び続けたという。輔佑も遠謫され、文天祥の挙兵時に召されたが既に死んでいた。徳祐元年(1275年)追贈が復され、潭州に廟が建てられ、翌年子孫の登用が認められた。