宋史卷四百十五 列傳第一百七十四 程公許
程公許は字を季与、一字希頴、叙州宣化の人。嘉定4年(1211年)進士に及第した。地方官として財政再建や民政に手腕を発揮する一方、朝廷では紙幣政策の弊害や言路の閉塞を繰り返し批判し、史嵩之の専権に一貫して反対した。清貧を旨とし公正な直言で知られたが、留任を求める上書が届く前に死去した。
若年と地方官
- 程公許は字を季与、一字希頴、叙州宣化の人。祖母の病に数月看病し、死後は哀毀骨立するほど礼を尽くした。嘉定4年(1211年)進士に及第、温江尉、華陽尉、綿州教授を歴任し、制置使崔与之に高く評価された。崇寧県知事として前借りや強制割当を免除。簡州・隆州の通判に転じた際、金軍が閬中を犯し制置使桂如淵が逃走する混乱の中、李﨑に代わり施州の通判として、財政の節減と利益回復を成し遂げた。将士の抄劫を制止し、賄賂を拒み、秦鞏の豪族招致論に反対し先見の明を示した。
朝廷での言論
- 端平初年、大理司直・太常博士として、天変への対応を求める上疏を行った。嘉熙元年(1237年)杜範の弾劾が退けられた事件を巡り、言路の閉塞を厳しく批判した。都城大火の際、蔣峴による銅禁の建言を批判し、寛容な対応を説いた。秘書丞兼考功郎官を経て峴の弾劾で罷免され、李宗勉の招きで著作佐郎に復帰、郭磊卿・徐栄叟の去職を憂え、史嵩之の入相に反対し続けた。
紙幣政策論争と再登用
- 楮幣(紙幣)の新造(十八界)に反対し、段階的な信用維持策を提案したが、史嵩之が黄榜を独断で掲げたことに対し「掖垣(宰相府)を廃するに等しい」と抗議した。宗勉・游似の慰留で職を続けたが、袁州知事に転じて和糴半減、周敦頤祠の新築、張栻書院の整備を行った。杜範の推薦で宗正少卿、起居舎人に召還され、濮斗南の弾劾で罷免されたが、範は「程季与は汝と伍を組む者ではない」と擁護した。淳祐2年(1242年)召還され、史嵩之が父の喪の起復を画策する動きを密かに阻止した。
疑獄事件と嵩之弾劾
- 起居郎兼直学士院として、九江太守選定の不正や、劉晋之・鄭起潜・濮斗南の弾劾要求の中で龔基先が用いられたことへの疑念を表明した。侍御史劉漢弼・右丞相杜範・右史徐元杰の相次ぐ不審死(元杰は口鼻に異常あり暴死)を厳しく追及し、公正な取り調べを求めたが、臨安尹趙与皙(史嵩之の残党)が獄を府に移そうとしたのを阻止させ、殿中侍御史鄭宷が調査したが真相は明かされなかった。士昌(鄭清之の子)の内祠侍養命への反対、鄭起潜・劉晋之・陳一薦の弾劾処分の厳格化を求めた。
晩年
- 中書舎人、礼部侍郎として史嵩之の免喪起復や台諫の追及を支持したが、章琰・李昴英の失脚に抗議し、鄭清之の圧力で建寧府知事に左遷された。清之再相後、湖州に4年間屏居し、権刑部尚書として貨財の乱用や辺境政策の弊害を上疏、京学の縮小策に反対し、旧規模の維持を求めた。清之が不興を示す中、殿中侍御史陳垓の弾劾に対し、参知政事呉潜や太学生劉黻ら100余人、布衣方和卿らが公許の留任を求める上書を行ったが、任命が届く前に公許は死去した。龍図閣学士を追贈、宣奉大夫を贈られた。清貧を旨とし、一裘を十数年着続けるほど質素であった。著書に『塵缶文集』内外制、奏議、奉常擬諡、掖垣繳奏、金革講義、進故事がある。