宋史卷四百十五 列傳第一百七十四 危稹

若年と学官

  • 危稹は字を逢吉、旧名は科、撫州臨川の人。淳熙14年(1187年)進士に及第、孝宗により稹と改名された。洪邁に文才を認められ、南康軍教授として転運使楊万里と交遊した。臨安府教授では倪思に「この人物あれば報国できる」と評された。武学論、太学録、武学博士、諸王宮教授を歴任し、宗子学の課試制度を整備した。

辺防論と地方統治

  • 秘書郎・著作佐郎兼呉益王府教授、著作郎兼屯田郎官として、軍功の褒賞・功臣の名誉回復・武備の整備・間諜の活用・和戦守の得失を論じ、守備重視を説いた。安辺所の徴斂の弊害、楮幣・塩鈔の改変による民への負担を指摘。柴中行の左遷に際し詩を送って宰相の不興を買い、潮州知事に出された。漳州知事として、親を葬らず寺に棲遅させる風習を改め義塚を建て2300余の遺骸を葬った。臨漳台に龍江書院を建てて講学し、賄賂の令に不当を発見した県令を罷免した。前守趙汝譲が減免した経総制銭を全廃した。晩年、崇禧観を提挙し郷里の耆老7人と真率会を結び74歳で卒した。至孝の性格で、著書に『巽斎集』、諸経の講義集解、魏晋唐詩文の編輯、『玉府』『薬山』などの奏議集がある。弟の危和も進士に及第し徳興知事として善政を行った。