若年と地方官
- 袁韶は字を彦淳、慶元府の人。淳熙13年(1186年)進士に及第、呉江丞として蘇師旦(韓侂胄の党)の役法を巡る干渉に屈しなかった。桐廬県知事として宗室の横暴を抑え、銭塘の堤防修築の負担を桐廬に及ぼさないよう求め、民から感謝された。嘉定4年(1211年)太常寺主簿に召された際、父老が旗鼓を掲げて富陽まで見送ったという。
臨安府尹としての善政
- 右司郎官として金使との交渉で毅然と対応し、嘉定13年(1220年)臨安府尹として約10年間、訴訟を精簡に処理し、道に落し物を拾う者なく巷間で「仏子」と称された。紹定元年(1228年)参知政事を拝したが、胡夢昱が済王事件で無実とされるべきとし署名を拒んだ。李全の揚州侵攻に際し浙西制置使として鎮圧に当たり、丞相史彌遠に卞整・崔福らの登用を進言、討伐を実現させた。端平初年、言事により罷免され、祠禄を得て77歳で卒し、少傅を追贈、後に太師・越国公を追贈された。
父の逸話
- 袁韶の父は郡の小吏で、勤謹に仕え代替わりの際にも留任を望まれるほど信頼された。50近くで子がなく、妻が納妾を勧め、迎えた妾が四川の趙知府の娘で貧困のため身売りされたと知ると、聘財をそのまま持たせて実家に帰した。この善行に妻も感嘆し、その翌年に袁韶が生まれたという逸話が伝わる。