宋史卷四百十五 列傳第一百七十四 黄疇若

若年と地方官

  • 黄疇若は字を伯庸、隆興豊城の人。1歳で父を失い外祖母杜氏に養われた。淳熙5年(1178年)進士に及第、祁陽県主簿として僧の殺人冤罪を晴らし、真犯人を突き止めた。柳州教授、霊川県令、廬陵県知事を歴任し、飢饉の際に自ら県用銭3千余緡を出して民の代納をした。開禧元年(1205年)都城の火災に応詔し、賦斂・軍民統制・地方官の失政を三大急務として上言した。

朝廷での諫言

  • 太府寺主簿、将作監丞、太府寺丞、秘書丞兼権礼部郎官、著作郎を歴任し、監察御史として「善く国を為す者は必ず恐懼修省の訓を前に陳べ、善く相を為す者は必ず危亡災異の事を上に告げる」と説いた。韓侂胄失脚後、鄧友龍・陳景俊の悪を弾劾。江淮督府廃止の不備を指摘し、邱崇を江淮制置使とする人事を促した。殿中侍御史兼侍講として、金への侂胄首級送付をめぐる論争で「梟首の上で函送すべし」と主張したが、国体を損なうとの批判も受けた。

財政緊縮策と地方統治

  • 帑蔵の不足に対し、宮禁から百官まで倹約すべきと説き、安辺所を設置。戸部侍郎沈詵の節省案に加え、内侍・宰掾・六曹による浮費の洗い出しを提案。飢民救済の期間延長を求め、蝗災に際して監司の適材登用を求めた。湖広の盗賊の背景に官の訴訟不作為があると指摘。会子(紙幣)の下落に対し漸進的な回収策を献策し、峻急な政策を緩和させた。
  • 成都府知事(のち避諱により寶謨閣待制と改称)として、10余万の欠税を免除し、冗員を整理、民の代納を行い、蛮族との関係を安定させた。董蛮の侵入に備えて防備を整え、蜀を4年間統治して弊害を一掃した。移屯や東南人材の蜀への登用を提案し、大玄城(張儀・高駢が築いた城)の修築費用を節約分で賄った。権兵部尚書太子右庶子として楮幣(紙幣)改革を献策し、太子詹事を経て老齢を理由に致仕。著書に『竹坡集』『奏議』『講議経筵故事』がある。