若年と義烈
- 趙希錧は字を君錫、旧名を希喆といい、慶元2年(1196年)進士に及第して改賜名を得た。若くして父の喪に扶けて帰る途中、賊に遭い左右が逃げ散ったが、希錧は棺を抱いて慟哭し動じなかったため、賊も義とみて去った。陳傅良・徐誼に学び、進士及第後、汀州司戸となった。峒賊李元礪の乱に汀人が震え上がった際、太守が僚佐を集めて守城を議した折、希錧は黙して発言しなかったが、後に「守城は策ではない。城から三十里の関、古城に精鋭を集めて要衝を扼せば賊を防げる」と献策し、任された。
地方官と朝廷での活動
- 関に至り防備を整え、賊の斥候を捕らえて逆に誤情報を伝え、夜半に襲来した賊数百を待ち構えて一挙に撃滅、残党は潰走した。この功で州の推官に昇進し、疑獄を裁き滞訟を決した。転じた際、軍民が道を遮って数十里も泣いて見送ったという。夔州路転運司の帳司として大寧の塩井の利病を上奏し、大理寺丞・大宗正丞・権工部郎官を歴任。宗室の子弟教育制度を整え、その進言により全国に施行された。成州団練使・和州防禦使・潭州観察使・安徳軍承宣使を経て、理宗即位後に厚遇され、治国の要は民心収攬にありと説いた。信安郡公に封じられて卒し、信安郡王を追封された。人柄は重厚で人の善を称え過ちを咎めず、清貧を守った。