若年と兄との交流
- 趙汝讜は字を蹈中という。若くして俊敏で優れた才略を持った。龍泉の葉適がその家を訪ねた際、汝讜が短い後ろ衣を着ていたのを見て「名門の子がなぜ学ばぬのか」と勧めたため、汝讜は恥じて以後短後の衣を着なくなり、学問に励んだ。兄汝談と並び「二趙」と称された。祖先の恩蔭により承務郎に補せられ、泉州市舶務・利州大軍倉を歴任し、宗室の賢者として推薦され、右蔵西庫を監した。
党禍と地方官
- 韓侂胄が趙汝愚を逐おうとした際、汝讜兄弟は公然と非を鳴らし、汝愚の冤罪を訴えた。侂胄はその直言を恐れ、党羽の胡紘に再び汝愚を攻撃させ、汝讜兄弟が汝愚の厚恩を受けて私に画策し天聴を惑わしたとして弾劾させた。汝讜は国を去らされ10年間廃された。
- のち華亭浦東鹽場の監官に任じられたが職を棄てて去り、浙西安撫司幕官などを辞退し、旧官のまま鎮東軍に転じ、嘉定元年(1208年)進士に及第して大社令、将作監簿、大理司農丞を歴任した。史彌遠と合わず地方に出て湖南提挙常平・江西提挙常平・提点刑獄などを歴任。瑞州の大姓幸氏が徐氏の田を強奪し、徐氏を殺婢の罪に陥れて獄に投じたが、汝讜が冤を明らかにし幸氏を反坐の律で黥竄・籍没した。幸氏は中官に訴え、汝讜は湖南に転任させられたが、直臣龔夬の墓を表彰し、瀏陽で民田を奪った豪民羅氏を法で懲らしめた。温州知事に遷り卒した。汝讜は常に「宗子は君を忘れず、孝子は身を辱めず、難に臨めば功業は朱虚侯のごとく、立身は劉向のごとくあるべし」と語った。